プロローグ



 桜が蕾を一杯に膨らませ、直に開花宣言がなされるであろう春の夕方。とある街の
片隅に門を構える剣道道場から、激しい打ち合いの音が響いている。

「せいっ!!」
「甘ぇぞ、カツの字ッ!」
「まだまだぁっ!!」

 短い鍔迫り合いの後、距離を取る二つの人影。一人は緑の黒髪を高く結い上げた
少年、相対するもう一人は少年に比べて随分と大柄だ。その上背は優に2メートルを
超えており、シルエットもごつごつと無機質な印象を受ける。それもその筈、何故なら
その体は機械で出来ているのだ。真紅に彩られた鋼の身に剣道装束を纏い、竹刀を
構える姿は正に鎧武者。相手の全身から立ち昇る威圧感に、少年は僅かに後退る。

「くっ……」
「来ねぇんなら――こっちから行くぜっ!!」

 総面の目蓋をがしゃりと開いて、鎧武者が突進する。その巨体に見合わぬ素早さで
瞬時に間合いを詰め、少年の胴を横薙ぎに払った。

「どぉりゃあああああっ!!!」
「うわっ……!?」

 少年は防ぐ間も無く、鎧武者の竹刀に運ばれるように後ろへ吹っ飛んだ。一瞬宙を
舞い、背中から板張りの床に叩き付けられる。その音を合図に、道場の上座に坐して
いた壮年の男性がすっくと立ち上がり声高に告げた。

「一本!! それまで!」
「いよっし!!」

 鎧武者がガッツポーズを取る。少年は小さく呻いて身を起こすが、途端に腹が鈍く
痛み胴鎧の上から押さえた。

「あいたたたた……」
「おっ、大丈夫かァカツの字?」

 先程の威圧感など嘘のように、鎧武者がどたどたと少年に駆け寄った。力強い腕に
ぐいっと引っ張り上げられて、少年は苦笑する。全く、この違いだ。

「菊千代殿……今日はやけに張り切っておられるな」
「んー? そうかぁ?」
「痛みがいつもの倍近くだ」
「いや、悪ィ悪ィ! 何だか待ち切れなくってよ」

 待ち切れない、とは恐らく部活入部の事だろう。
 明日には武者鎧と少年――菊千代と勝四郎は、晴れて高校一年生となる。
 高校生活の楽しみと言えば、何を置いても部活動である。二人とも剣道部に入部を
強く希望しているのだが、菊千代の思いは勝四郎とは少し異なる。

 なぜなら――菊千代は機械の体だからである。

 幼くして事故に遭い全身機械となった菊千代は、その巨体さも相俟って日常生活を
送る事が非常に困難だ。未だ開発段階の全身機械化、改善点は山のようにある。
 中でも一番の問題とされているのは力の制御だ。
 技術的にも確実とは言えない上に、菊千代はまだ子供。迂闊にケンカなどして怪我
などさせては、と一時は通学さえ危うかった事もある。
 それを聞いた時、勝四郎は酷く憤慨したのを覚えている。
 一番の親友だと言う欲目もあるだろうが、それでも菊千代に限ってそんな事は無いと
勝四郎は確信する。
 菊千代は、決して誰かを徒に傷付けたりするような男ではない。
 結局通学に関しては事無きを得たものの、部活動は他の保護者達の手前遠慮して
欲しいと中学校側に言われてしまったのだ。日常生活で気を付けていても、スポーツ
特有の興奮状態の中では難しかろうと言うわけだ。

「念願の剣道部であるからな。無理もなかろう」
「へっへ、感謝してるぜェ伯父上殿!」

 二人の傍に立って言うこの剣術道場の師範――島田勘兵衛に笑い掛ける菊千代を
見上げて、勝四郎は僅かに微笑む。
 菊千代が高校でやっと剣道部に入部を許可されたのは、偏にこの勘兵衛の努力の
賜物である。
 勘兵衛は剣道場師範だが、同時に菊千代たちが入学する高校の剣道部外部顧問
でもあるのだ。剣道界で名を轟かせた勘兵衛は是非にと請われて顧問を引き受け、
何年もの間部を全国優勝に導いて来た。その勘兵衛が何度も粘り強く上に掛け合い、
遂には菊千代の剣道部入部を勝ち取ったのだ。
 知らせを聞いた菊千代の喜びようは言葉では語り尽くせない程だった。それ程に、
菊千代は剣道が好きなのだ。その様を思い起こして勝四郎は少し噴き出す。

「あん? 何だよカツの字」
「い、いいや……おっと、もうこんな時間か。そろそろ失礼します」
「ああ、気を付けるのだぞ」
「はい、先生」

 勘兵衛に向かって深く一礼し、勝四郎は落ちた竹刀や防具を片付け始める。それを
見て菊千代も道場の外へ出て行く。外の水場へ雑巾を取りに行ったのだ。
 勝四郎も道場に通い始めた当初は一緒に手伝おうとしたのだが、頑なに断られて
からは口を出さないようにしている。どうも菊千代は道場の床掃除が大層気に入りの
ようだった。狭い学校の廊下と違い、広い道場なら走り放題だからかもしれない。
 服を着替えて出て来ると、丁度雑巾を携えて戻って来た菊千代と鉢合わせる。

「では菊千代殿、また明日」
「おう、またなカツの字!」

 互いに軽く手を上げて別れを告げ、勝四郎は島田剣術道場を後にする。
 時計の時間はとうに夕方だが、空の色はまだまだ明るい。もう冬は終わったのだな、
と改めて実感する。
 ふと、前方から歩いて来る人影に目を止めた。

「おや、勝四郎。今帰りかい?」
「七郎次殿」

 色の薄い金髪を奇抜な形に結った優男は加東七郎次。島田家の隣人で島田剣術
道場の師範代でもある。だが最近は教師の仕事が忙しく、あまり顔を出していない。
 勝四郎は軽く頭を下げて、頷いた。

「そう言えば、明日は入学式だったな。暫く菊千代の面倒見てやってくれるかい」

 一応あたしも気を付けるけど、限界があるからな。と苦笑する七郎次に、勝四郎は
釣られて笑う。まるで子供の心配をする母親のようだ。

「はい、お任せ下さい」
「悪いな、宜しく頼むよ」
「いえ。それでは」

 片目を瞑り顔の前で手を立てる七郎次。勝四郎は頭を下げて七郎次と擦れ違う。
 視界の端に道場へ踏み入る七郎次の姿が映り、少しして菊千代の声が風に乗って
聞こえて来た。小さ過ぎて内容はわからないその声を、目を閉じて聞き入る。

 知らず、勝四郎は菊千代と初めて出会った日の事を思い出していた。





「う、うわああああああっ!?」

 今の今まで自分に与えられていた暴力が突然止んだ。
 それと同時に頭上高くから響いた驚愕の悲鳴に、勝四郎は頭を抱えていた手をそろ
そろと外しそちらを見上げる。

「え――――?」

 そこにいたのは、自分を取り囲む少年たちの一人をまるで猫でも摘み上げるように
高く掲げている真っ赤な武者鎧。学校のどの先生よりも背が高い。必死に逃れようと
手足をじたばたさせる仲間を見て、少年達は怯えたように後退る。

「うわ、くそ、離せよっ!!」
「な、何だよお前!!」

 口々に言い募る少年達をじろりと見回して、巨大な鎧はへんっ、と吐き捨てた。
 勢い良く噴気し、がしゃん! と大きく踏み出して一人にずいっと顔を近付ける。

「大勢で寄ってたかって一人をボコんのか、ああ!?」
「ひっ……」
「俺様弱い者苛めは許せねぇ! 男ならケンカは正々堂々、タイマンだろうが!!」

 ぶん、と片腕を横薙ぎに払う鎧の怒号に、少年達は完全に怖気付いていた。中には
腰を抜かしている者もいる。
 その様子に気が済んだのか、鎧は捕まえていた少年をどすんと地面に落とした。

「ふん、わかったらさっさと行きやがれ!」
「あ……わあああっ!!!」

 途端に蜘蛛の子を散らすように逃げて行く。後に残ったのは、地べたに座り込んだ
ままぽかんと鎧を見上げる勝四郎のみ。

「あ、あの……」

 勝四郎の声に、鎧が今頃気付いたかのようにおっと、としゃがみ込んだ。大きな掌で
ぱんぱんと服や頭に付いた埃を払ってくれる。

「大丈夫か? あーあー、派手にやられたなぁ」
「……かたじけない。お陰で助かった」
「いいって事よ、気にすんな」

 手を止め、にっこりと勝四郎に笑いかける武者鎧。表情どころか眉も口も鼻も無い、
辛うじて目と思われる長方形の穴があるだけの顔なのになぜ笑えるのだろう。
 その笑顔に思わず見とれていた事に気付いて、勝四郎は慌てて口を開いた。

「わ、私は岡本勝四郎と申す。初めてお見かけするが、そなたは……」
「俺様は三船菊千代だ! 今日この小学校に転校して来たんだ、よろしくな」

 思わず目を丸くする勝四郎。

「て、転校? では、そなた……小学生なのか!?」
「おう。まあ体はこんなだけどよ、れっきとした小学四年生だ!」

 そう言ってまた笑う菊千代に、勝四郎は一瞬なぜか、何か、違う色を感じていた。
 それが一体何なのかはわからなかったが。

「立てるか? 歩けなかったら連れてってやる。教室は? あ、その前に保健室か」
「いや、保健室は必要無い。いつもの事だから」
「いつもってお前……」

 よろけながらも立ち上がる勝四郎に、菊千代は心配そうな顔をする。

「そなた……菊千代殿と言ったか。助けて頂いてこんな事を言うのも何だが、私には
もう関わらない方がいい」
「あ?」
「私を庇えば、そなたにも迷惑がかかろう……」

 背を向けて語る勝四郎の言葉に、菊千代はああ、と思い立ったように頷いた。

「さてはオメェ、いじめられっこか」
「…………」

 言い当てられて、黙り込む。
 しかし、菊千代はだからどうしたと言うように続けた。

「別に俺様、そんな事ぁ気にしねぇよ。見た感じ、原因がオメェの性格にあるわけでも
なさそうだしな」

 その言葉に、勝四郎は思わず振り返っていた。

「……なぜそう言い切れる。今出会ったばかりの私を」
「わかるさ。俺、人を見る目はあるつもりだぜ。それに親父がいつも言ってた。本当に
いい奴は、目を見ればわかるってな」
「目を?」
「おうよ。オメェの目は、いい奴の目だ。少なくとも、さっきの奴らとは違うぜ」
「……!!」

 瞠目する勝四郎に、菊千代は再び笑顔を浮かべた。手袋に包まれた大きな掌が、
優しく頭を撫でてくれる。
 瞳は無いが、菊千代の目が自分の目を見据えているのがわかる。
 やがて、菊千代はそうかぁ、と呟いた。

「オメェはいい奴だなぁ、勝四郎。謂れが無くたって、殴り返すような事はしたくねぇか」
「どう、して…………」
「スゲェな、オメェ。かっこいいぜ」

 勝四郎は何も言えず、俯いてしまった。
 菊千代の笑顔を見ていると、胸の辺りをきゅうっと掴まれたようになってしまう。
 唇を噛み締め、両手で服を握り締めると、宥めるようにぽんぽんと軽く叩かれる。
 その手は誰よりも暖かいと、勝四郎は思った。





 背後からゆっくりと走って来た黒塗りの車が横付けされて、勝四郎は我に返った。
 運転席の窓が開き、見慣れた男が顔を出す。

「勝四郎様、またこのような時間にお一人で……さあ、お乗り下さい」

 いつも同じ事しか言わない男を横目でちらと見て、勝四郎は歩を進める。

「勝四郎様!」
「迎えは要らぬと言ったであろう。例え父上の命令でも聞けぬ」
「しかし……」
「今日にでも、もう一度父上に話す」
「は、はあ」

 沈む太陽の金色の光に縁取られた町並みを見上げて、勝四郎は笑った。

「私の道は、既に決まっているのだ」

 それは実に、楽しそうな笑みだった。



       続く



入学前なのでプロローグです。なぜかカツシロウ視点。
本編始まったら恐らく全くスポットが当たらない事請け合いですから(酷)。
多分キクチヨが出会う人片っ端から無自覚に誑して行くお話になるかと!(笑)