こころね



「おー」

 空を見上げて、キクチヨは感嘆の声を上げた。
 雲一つ無い夜空には、無数の星が瞬いている。虹雅渓みたいな場所では見る事の
出来ない気色だ。田舎である村落ならでは、である。

「こいつは見事だぁ」

 キクチヨの故郷の村でも、同じように見えているのだろうか。
 あの頃は生きるのに精一杯で、一々空なんか見ていられなかった。
 けれど今なら。

 ふと感傷的になって、キクチヨは慌ててぶんぶんと頭を振った。

「違う違うでござる! 俺様別に故郷が懐かしくなったりなんてしてないでござる!」

 ブシューッ、と勢い良く蒸気を吹いて、そう言えば自分一人だったのだと思い直す。
誰に言い訳をしているのだろう、と思わず自問した。

「キクチヨ様ともあろう者がよ……とうとう焼きが回ったかねぇ」

 崖っぷちにどっかと胡座をかいて、キクチヨは盛大な溜息をついた。

「場所だって覚えてねぇのによ」

 村を飛び出したのは何歳の頃だったか。

「こんな体で……」

 今更、帰れるわけが無い。

 ぐいと顔を上げ、両手で膝をばんと叩いた。

「俺様はサムライだ!」
「そうだな」
「のわぁっ!!?」

 肩の辺りで声がして、キクチヨは飛び上がる程驚いた。いや実際に飛び上がった。
バランスを崩し掛け咄嗟に手を突き出して体を支える。
 空に向かって三つ指、のような姿勢のまま後ろを振り返れば、そこには相変わらず
無表情な男、キュウゾウの姿。

「おおお……脅かすんじゃねぇよこの野郎! 心臓止まるかと思ったじゃねぇか!!」

 やや上擦った声で怒鳴りながら、キクチヨは僅かな違和感に首を傾げた。
 目線が自分と同じだ。よくよく見れば、キュウゾウが片膝を付いてしゃがんでいる。
 普段から人に合わせるような事は滅多にしないキュウゾウが。かなり珍しい。
 と、表情を全く動かさないままキュウゾウが口を開いた。

「……あるのか」
「は?」
「心臓」

 実に真剣な顔で聞いてくるキュウゾウに思わず脱力する。がしゃ、と地面に突っ伏す
キクチヨを見詰めるキュウゾウはやはり無表情だ。先程のものより数倍疲れた溜息を
付いて、キクチヨは身を起こしキュウゾウに向かい合う形で座り直した。

「いや、ねぇよ……単なる言葉のアヤだ」
「そうか」

 言うが早いか、キュウゾウの手がキクチヨの胸に伸びる。ぺた、と形を確かめるかの
ように鉄に触れた。

「聞こえない、な」
「……たりめーだろ。あったとしてもこんな鎧の下で……聞こえるかよ」

 自分でわかっていても、改めて人に言われるとやはり考えてしまう。
 機械なのだ、自分は。今更戻れはしない。
 故郷の事など、忘れるべきなのだ。
 自分は、サムライなのだから。

「何を考えている」
「え?」

 突然の言葉に、知らず俯いていたキクチヨは弾かれたように面を上げた。赤い目が
キクチヨを見据えている。

「お前は、サムライだ」

 キュウゾウは手を離し、裏返してノックをするようにこん、と叩いた。
 僅かな振動が、波紋のように広がる。

「そう聞こえた」
「あ……」

 キュウゾウの言葉が、まるで先の振動のように内へ広がって行く。

「忘れるな」

 キュウゾウは口元をほんの少しだけ緩ませて、立ち上がった。もしかして、と思う。
 もしかして、慰められたのだろうか。自分は。
 胸に手をやり、既に歩き出していたキュウゾウの背中にポツリと洩らす。

「何でい……珍しく笑いやがってよう」

 それは悔しそうな、でも安心したような声で。
 その小さな声を聞いてキュウゾウが微笑んでいた事など、キクチヨは知らなかった。



      終



多分「農民はずるいんだ!」の後。無自覚ラブ?
「心根」であり「心音」であり。