「久蔵」

 呼ばれて、久蔵は振り返った。
 視線の先には、求めて止まない男の姿がある。

「久蔵」

 笑みの形に象られた口が、また己の名を呼ぶ。
 久蔵はああ、と答えようとして、声が出ない事に気付いた。

「久蔵」

 彼が呼ぶ。
 その声に答えたいのに、声が出ない。足が、動かない。

 ――菊千代。

 伸ばし掛けた指の先で、彼の姿が闇に飲まれた。



      <求むるもの>



「――――ッ!!!」

 強く息を呑むような、声無き声を上げて久蔵は飛び起きていた。
 呼吸は荒く、流れる汗が顎を伝って上掛けに滴り落ちる。
 焦点の合わない瞳をふらふらと彷徨わせて、久蔵は漸く外の眩しさに気付いた。

「……夢」

 思わず声に出して、深く溜息を付く。
 悪夢を見て目が覚めるなどと、童でもあるまいに。
 これではもう一度寝る気にはなれない。久蔵が上掛けを剥いで起き上がろうとした
その時、部屋の片隅にふわりと浮かび上がるモノがあった。
 久蔵の式である。

「主様、朝餉の支度が――」

 そこまで述べて、式神はぱちくりと目を瞬かせた。普段なら起こされるまで起きない
久蔵が、既に布団の上に起き上がっているのである。珍しい事この上ない。

「……今行く」

 式神が二の句を継ぐ前に、久蔵はさっさと立ち上がって寝所を出た。廊下を歩いて
行く間に、他の式が瞬く間に着物を取り替えて行く。座敷に着く頃は久蔵の身なりは
すっかり整えられていた。
 用意された膳の前に腰を下ろし、箸を取る。給仕の為控えている式を除けば、この
広い部屋に久蔵は一人だ。

「……おい」
「はっ」

 こんな味気のない食事がもう何日続いただろう。
 そう思いながら傍らの式に声をかける。

「……あれが来なくなって、何日経つ」

 一体どれ程の間、姿を見ていないのだろう。
 いつも煩くて、喧しくて、でもとても暖かいあの男。
 菊千代。
 あんな夢を見たのも、菊千代が近頃全く顔を出さないからだ。

「今日で……丁度一月になりますが」

 もうそんなになるか。
 久蔵は小さく嘆息し、物見役の式神を菊千代の元へ走らせた。
 食事が終わる頃には戻っているだろう。
 静かに堪忍袋の尾を切っていた久蔵は、後で菊千代にどう文句を言ってやろうかと
考えを巡らせていた。
 その知らせを聞くまでは。

「何、だと……!?」

 予想より速く戻って来た式神は、酷く狼狽していた。
 久蔵は取り落とした箸もそのままに、庭へ駆け下りる。

 そんな事があってたまるか。

 手持ちの中でも最速の式に跨り、空を駆ける。
 吹き付ける風がどれ程頬を打とうが構いはしない。
 身中に荒れ狂う感情の発露は、握り締めた掌に滲む血潮だ。

「ふざけるな……!!」

 菊千代が、あの日輪の如き男が、死ぬなどと。





 稲妻のように庭へ降り立ち、近くで腰を抜かしていた随身に鬼神の如き様相で詰め
寄り菊千代の居場所を吐かせた久蔵は、辻風のように屋内へ消える。
 久蔵の目には、最早他の人間など映っていない。
 目的の部屋を目指し、ただ走る。

 苦痛に顔を歪ませ横たわる菊千代を見た時、久蔵は全身が総毛立つのを感じた。

「菊千代……!!」

 すぐさま傍らに跪き、視線で全身の様子を探る。
 菊千代の胸全体を覆う真っ白な包帯には鮮血が滲み、傷の深さを思い知らせる。
日に焼けた健康的な肌は血の気が失せて紙のように白く、その顔に脂汗を浮かべて
いた。呼吸はか細く断続的に繰り返され、今にも止まるかも知れぬ危うさを見せる。
 久蔵は痺れたように重い指先を持ち上げ、菊千代の額に触れる。かなり熱い。
 傷が熱を持っているのか。
 菊千代の状態は、誰の目にも危険とわかるものだった。

「菊千代」

 呼んでみても、菊千代は目を覚まさない。
 ただ苦しげに眉根を寄せ、浅い息を吐き出すだけだ。

 何故。
 何故。

 頭の中で繰り返される問いに、答える者は無い。
 久蔵は菊千代の、柔らかい髪をそっと撫でた。

「……菊千代」

 今なら何度でも名前を呼べるのに。
 何故答えぬ。
 どうしてこんな事に。
 何故。
 菊千代。
 菊千代、菊千代。
 起きろ。
 お前の台詞だろう。俺が言ってどうする。
 これでは逆だ。
 菊千代。
 起きろ。目を開けて、俺を見ろ。
 お前の目が見たい。
 お前の目はどんな色だった。
 声が聞きたい。

「…………菊千代……」

 お前の笑顔を、見たいのに。





「主様」

 気付けば何時の間にか騎乗して来た式神が姿を変え傍に浮かんでいた。
 声をかけられると同時に、部屋の外に現れた気配に顔を上げる。

「……久蔵」

 部屋の入り口に立った男は、ほんの僅かだけ瞠目したようだった。
 滅多に屋敷を出ない久蔵がいる事に驚いたのかも知れない。しかし、随身所にこの
男がいる事も定例では些かおかしな事ではあった。久蔵もこの男――勘兵衛も、共に
都では少なからず名の知れた陰陽師だ。
 勘兵衛は静かに部屋に入ると、菊千代を挟んで久蔵の向かいに腰を下ろす。

「とうとうお主の耳にも入ったか」
「…………」

 勘兵衛の口調に、久蔵は片眉を跳ね上げる。
 それは――どう言う事だ。
 久蔵の視線の意味に気付いたか、勘兵衛は然様、と頷いた。

「知れば……もっと早くにこうして来てしまったであろうからな」

 その眼光に、久蔵はこの男の言わんとする事を悟った。
 それはつまり――勘兵衛が意図的に、久蔵に情報が渡らぬようにしたと言う事。
 以前から久蔵が菊千代に近付くのに懸念を抱いていた勘兵衛だ。動機はわかるが、
それで納得出来るものではない。

「お主には、関わりの無い事だ」

 胸の内に燻っていたやり場の無い怒りを勘兵衛に向けて、久蔵は言い放った。
 掌から菊千代の熱を感じる。大切な者が命の瀬戸際に立たされているのに、何故
傍にあるのを妨げられねばならぬ。
 いっそ憎しみに近い感情を込めて睨み付ける久蔵の目を、しかし勘兵衛は怯む事
無く睨み返した。その姿勢には、己が間違っていると言う感情は微塵も感じられない。
否、例えそんな思いがあったとしても、決して表には出さぬ男だ。

「お主の気持ちはわかる。だが、そうも言っておれぬ」
「何だと」
「菊千代の命に関わる事だ」

 そう言って勘兵衛が懐から取り出したものに、久蔵は見覚えがあった。
 妖気を祓う、破魔札の一種だ。
 勘兵衛は札を菊千代の傷に乗せ、小さく呪言を唱える。その文句を聞いて、久蔵は
菊千代の枕元に置いてある盆に思い至った。盆の上には水差しと薬が乗っている。
 あの薬は、確か。

「…………妖魔か」
「そうだ」

 言われて、久蔵は漸く気付いた。
 菊千代の傷は、ただの傷ではない。物の怪に襲われて付いた傷だったのだ。改めて
良く見れば、確かに傷口からは仄かに妖気が漂っている。気が動転していたとは言え、
こんな妖気にも気付かなかったとは。勘兵衛の札と薬のお陰で消えかかっているが、
恐らく、相当に強力な妖怪だったのだろう。だから菊千代は一月もの間苦しんで。

「――――ッ!!」

 傷から立ち昇る妖気の気配が僅かに増した気がして、久蔵は咄嗟に手を引いた。
 今の、は。

「わかるか」
「…………相手は」

 妖気を見詰めたまま問う久蔵に、勘兵衛は静かに告げる。

「目撃談を聞く限りでは――饕餮(とうてつ)だ」
「!!」

 饕餮。饕餮だと。
 大陸四凶の化け物が、またしてもこの都にやって来たと言うのか。

 その身を強張らせ拳を固く握り締める久蔵に、勘兵衛はじろりと視線を投げる。

「近頃は誠に多くの妖怪が大陸から流れて来ておる。陰陽の者が、同時にこの国に
生まれてしまってはな。引き寄せられるのも当然だ」
「…………」
「お主に罪は無い。菊千代にも。しかし、お主と違い菊千代は未だ目覚めてはおらぬ。
お主が深く関われば関わる程……菊千代は危険になるのだぞ」

 久蔵は菊千代の顔を見詰める。勘兵衛の術の効果か、顔色が少し戻ったようだ。

「………………」

 不意に、視界に入るのは己の手。
 傷を癒すどころか、妖気を増幅させてしまったこの我が身。
 求めてはならぬのか。
 七曜の宿命など関係無い。
 月が輝く為に、日の光を求めるのではない。
 ただ人が人を求めるように。
 菊千代と言う人間を、己は求めてはならぬのか。
 こんなにも、狂おしい程に焦がれていると言うのに。

「心を殺せ、久蔵。陰陽の均衡は保たれねばならん。闇を呼ぶお主の力は、菊千代の
命を奪いかねんのだぞ。お主が真に菊千代を思うのならば」
「菊千代を……忘れろ、と?」
「…………そうだ。忘れて貰わねば困る」

 久蔵は、もう一度菊千代を見た。
 自分が、菊千代から離れれば。菊千代はこんな目に遭わずに済むと。
 だが。
 そう安易に忘れられるのであれば、誰も苦労はしない。
 あの声。
 あの笑顔。
 あの眼差し。
 全て無くして、今更生きて行けるものか。
 一度触れた温もりは、二度と消えぬ。

「断る」
「久蔵!」

 咎めるような勘兵衛の目を真っ直ぐに見返し、久蔵は口を開いた。

「俺が闇を寄せる質なのはわかっている」
「ならば……!」
「だが、それがどうした。俺の陰の気に妖怪どもが寄って来るなら、それでいい。全て
祓えば済む事だ。もう二度と、菊千代に妖魔の傷など負わせぬ」
「何」
「菊千代は、俺が護る」

 言い置いて、立ち上がる。踵を返した久蔵の背に、勘兵衛が叫ぶように言った。

「待て、久蔵!!」
「…………」

 一拍置いて振り返れば、片膝を立て掛けた勘兵衛と視線が合う。その瞳の奥にある
色を感じ取って、久蔵は嘲笑とも冷笑とも付かない笑みを浮かべた。
 この男も、同じなのだ。

「俺は、お主とは違う。役目に囚われて己を殺すなどと、下らぬ事はしない」
「だが」
「……力尽くで止めて見るか?」
「…………」
「七曜の長とは言え、貴様の黄龍……我が黒龍に敵うとも思えぬが」

 くつくつと喉を震わせて笑い、久蔵は今度こそ勘兵衛に背を向けた。式を元に戻し、
その背に騎乗する。

「窮奇に続いて饕餮か」

 ぽつりと呟き、ふわりと空へ舞い上がる。

「相手に……不足は無い」

 如何な大妖怪であろうとも、最早久蔵の敵ではない。
 例えそれが己と同じく、陰気を源とする存在であっても。

 光を受け入れ、恐怖を振り払った闇は――月輪の如く輝けるのだ。



      終



陰陽師パロ第二弾。あー楽しい!(笑) 神話系・伝説系大好きです。
「微睡の契約」の過去話でした。陰陽師パロの詳細設定を考えてたらやたらとシリアスに。
でも意外と合うんですよお侍! 陰陽道とか五行とか属性とか!!(笑)
つかキクたんが喋ってない……!!(汗) 久蔵の妄想はノーカウントで(爆)。
細かに設定作るとうっかり連載しそうになるので(笑)何とか単発で行きたいです。