<らいばる>



「おっちゃま――――――ッ!!!」
「うおコマチ坊!?」

 突然後ろから膝の辺りに体当たりを受けて、キクチヨは思わず壁に手をついた。
 見れば、年少組のコマチがキクチヨの足に確りとしがみ付いている。

「たいへんですっはやくはやく!!」
「な、なんだぁ?」

 ぐいぐいとズボンを引っ張られるが一体何を慌てているのか。

「は――や――く――ッ!!!」
「わ……わかったから引っ張るなコマチ坊! 歩きにくい!!」

 自分の身長の四分の一程しかない幼子に引き摺られるようにしてキクチヨが赴いた
先は、保育園の敷地の片隅であった。そこには一本だけ、天に届かんとばかりに高く
伸びた樫の大木が聳えている。相当樹齢の高い樹のようで、毎年この樹には大勢の
野鳥たちが羽を休め巣を作り、秋になれば大量にドングリを落としてくれるので園児
たちの恰好の遊び場にもなっていた。
 その樫の根元に園児たちが集まって何やら騒いでいる。走りつつ彼らの視線を辿り、
キクチヨはあまりの事にぎくりとした。

「な……何やってんだあいつらは!?」

 樫の木の、一番低い所にある枝の先に。
 どうやって登ったものか、年長組のヘイハチが取り付いていたのだ。

「ねえさま、おっちゃまつれてきたです!!」
「ああ、せんせい……! どうしましょう!!」

 キララが不安げにキクチヨに取り縋る。その背中を宥めるように撫でてやりながら、
残った男子の方に目を向ける。その視線を受けて、シチロージが口を開いた。

「とりのヒナが、すからおっこちてしまったんでげす」
「それでヘイハチどのがもどしてやろうと……」
「……おれはとめた」

 その後をカツシロウとキュウゾウが次ぐ。

「あんの馬鹿……!! おいヘイハチ! 今すぐ降りて来い!!」
「だいじょうぶですよ、せんせい。わたしきのぼりはとくいなんです」

 じりじりと枝の先へ進んで行くヘイハチに怒鳴るが、のんびりとした声が返って来る。

「だあっ、くそ! ……俺の体重じゃ無理だな……」

 幾ら丈夫な樫の木と言っても、全身機械のキクチヨの体重を支えられるかどうかは
甚だ疑問である。
 保育園にある梯子では届かないし、焦るキクチヨの脳裏に同僚の顔が浮かんだ。

「! そうだ、ゴロの字なら身も軽いし……おい、誰かゴロの字呼んで来い!!」
「わかった」

 キクチヨの言葉に即座に反応したのはキュウゾウだった。ぱっと猫のように身を翻し
走って行く。
 その背を見送って視線を戻したキクチヨの目に映ったのは、間の悪い光景だった。



 ところで、ヘイハチに恐怖心は全く無かった。
 木登りは本当に得意だったし、保育園の友達の誰よりも上手く出来る自信もあった。
それに、自分は良い事をしているのだ。あんな所に落ちていたのでは、この手の中の
雛は餌を貰えず餓死してしまう。死と言う概念はよくわからないが、それは可哀想な
事だとヘイハチは思っていた。自分だって、ご飯が食べられないのは嫌だ。

 せんせいたちだっていつもいってた。
 だれかこまってるひとがいたら、たすけてあげろって。
 じょうずにできたら、きっとほめてくれるよね。

 ヘイハチは先生が大好きだった。言い付けを守っていい子にしていれば、どんな時
だって先生はにっこり笑ってヘイハチの頭を撫でてくれるのだ。
 心配されている自覚はある。
 だが、ヘイハチは自分が失敗するなどと少しも思わなかったのだ。

「はい、おうちですよ。もうおっこちちゃだめですからね」

 短い腕をうんと伸ばし、巣の中に雛をころんと戻した。同じ形をした雛がたくさんいる
から、ここが巣で間違い無いだろう。

「……やったぁ」

 無事にやり遂げた、と言う達成感でヘイハチの胸は一杯だった。
 だから、飛来する二つの影に気付かなかったのだ。

「――ヘイハチ!!」
「え? うわぁっ!?」

 突然顔の辺りに何かが飛んで来て、ヘイハチは咄嗟に目を瞑り首を竦めた。何かが
頬を掠めて行く。恐る恐る目を開けるが、再び何かが向かって来て悲鳴を上げた。
 頭に、背中に、頭を抱えればその腕に。
 ばさばさと言う羽音と、威嚇するようなぎぃぎぃと言う声がヘイハチを取り囲む。
 それはタイミング悪く狩りから戻って来た親鳥がヘイハチを敵と見なし雛を守る為に
している行為だったが、良い事をしたと思っているヘイハチにわかろう筈も無い。
 ヘイハチは驚き、混乱し、謎の攻撃から身を守ろうと体を捩ってバランスを崩した。

「きゃあああああっ!!!」
「ヘイハチどの!!」

 キララの悲鳴が響き、落ちた、と思う間も無くヘイハチの視界はぐるんと回った。



 ずしん、ともどかん、とも付かない音が響いたように思えた。
 ヘイハチは全身が痺れたような感覚で、自分が上を向いているのか下を向いている
のか良くわからなかった。おまけに真っ暗だ。

「――大丈夫か、ヘイハチ?」
「せんせい……?」

 すぐ上でキクチヨの声がして、ヘイハチは目を開けた。開けて、目を閉じていたから
暗かったのだと今頃気が付く。
 目の前にはキクチヨがいて、ああ先生だ、と思ってからヘイハチの耳に音が戻った。

「おっちゃま!!」
「ごぶじですか!?」
「せんせい、ヘイハチどの!」
「おふたりとも、おけがは?」

 コマチにキララ、シチロージにカツシロウ。
 口々に駆け寄って来る子供たちにおう、俺ァ平気よと答えて、キクチヨはヘイハチを
片手でひょいと持ち上げ地面に立たせた。どうやら、ヘイハチはキクチヨの腕に確りと
抱えられていたらしい。

「大丈夫か? どこか痛いトコねぇか?」

 少し離れた場所から見て、ヘイハチは驚いた。何故なら今、自分たちが立っている
のは樫の木の真下ではない。そこから少しだけ進んだ保育園の敷地を囲うフェンスの
傍だったのだ。キクチヨはフェンスを背にして座り込んでおり、緑の金網はその背中の
ラインに沿うようにべこりと凹んでいた。
 自分は、木から落ちたのではなかったのか?

「だ、だいじょうぶ、です」
「そうか」

 あんま無茶すんなよ、と優しく頭を撫でてくれる。だが、ヘイハチは奇妙な違和感を
感じていた。――どこか、おかしい。
 キクチヨは、右手を体の後ろにやって上体を支えている。
 ヘイハチを持ち上げたのも、頭を撫でてくれたのも、左手だ。
 声も、どこか掠れているようだ。

「せ――」
「せんせい!!!」

 キクチヨを呼ぼうと口を開きかけて、後ろからの声に振り返る。
 キュウゾウがゴロベエを伴って走って来た所だった。

「キクチヨ!」
「遅ぇぞゴロの字」
「すまん。怪我は?」
「ヘイハチはこの通り無事だぜ」

 肩を竦めるように、掌を少し上げる。また――左手だ。

「…………」

 それをじっと見詰めていたキュウゾウが、無言でヘイハチの前に出た。

「キュウゾウ……どの?」
「…………ヘイハチ」

 ――ばちぃん。

 手を振り上げた、と思った時にはもう殴られていた。

「!!!」

 ヘイハチは僅かに赤くなった頬を押さえてキュウゾウを見る。
 それは所詮子供の力だったが、子供故に容赦も無かった。

「お、おいキュウ……」
「これをみろ」

 言って、キュウゾウはキクチヨの右腕を掴み上げる。

「――――!!!」
「おっちゃま……!?」
「て、てが」

 コマチが涙ぐみ、カツシロウが震えた声を出す。

 その右腕の先には――ある筈の手が、無かった。
 白い手袋に包まれた、あの優しい大きな手が。

「あ……わ、たし、は」
「だから、よせといった」

 恐らくヘイハチを受け止める際に、無理な体勢を取ったのだろう。折れた先の手は、
樫の木の傍に転がっていた。

 じわり、と目の前が歪む。

 だって、だって。
 いいことをしたとおもったのに。
 せんせいにほめてほしかったのに。
 せんせいになでてほしかったのに。
 せんせいのてが、わたしの。
 わたしのせいで。
 せんせい。

「いいんだ、キュウゾウ。ヘイハチ、俺はオメェのせいだなんて思ってねぇよ」
「せん、せ」
「俺はオメェらの先生。オメェらが怪我しねぇように、守るのが先生の仕事、だぜ……」

 語尾が徐々に弱まり、キクチヨの体全体が弛緩してがしゃりと音を立てた。

「せんせ……っ」
「おっちゃまは……?」
「心配いらん、痛みで気絶しただけだ。先生は今から病院に連れて行くから、部屋に
戻っていなさい」
「…………」
「……はい……」

 ゴロベエが折れてしまった手を拾ってキクチヨを背負い、職員室へ向かうのを子供
たちはただ黙って見送るしかなかった。





「キクチヨは心配無い。マサムネ殿と言う、立派な機械医師が治して下さる」
「………………」

 何を言っても無反応なヘイハチに、カンベエは溜息を付いた。普段からマイペースに
にこにこしている子供だったから、こうなられるとやりにくい。
 ゴロベエに部屋に戻れと言われたようだが落ち着かないのだろう。一人タイヤ飛び
用のタイヤに腰掛けて塞いでいるヘイハチを見付け声をかけたが、この通りだ。
 こう言う場合、逆に放っておいた方がいいのだろうか。
 足元近くに置いてある植木鉢に目をやる。キクチヨが園児たちと植えた花だ。直に
芽が出るだろう。花の種類は何だったか。
 どうでもいい事に思考を飛ばしていると、ようやっとヘイハチが重い口を開いた。

「……どうして、おこらないんですか」
「そんな事か」

 カンベエは薄く笑い、もう必要無いからな、と言った。

「まあ、助言くらいはして進ぜよう」
「じょげん?」
「然様、助言だ。お主は気付いておる事に……気付いておらぬようだからな」
「……はあ」

 顎鬚を一度撫でて、カンベエは良いか、と語り出した。

「鳥の雛を助けようとした、それ自体は悪い事でも何でも無い。あのままではいずれ、
猫にでも襲われて死んでいたであろうからな。だが――残念ながらお主に出来る事は
限られておる。何故なら、お主はまだ子供だからだ」
「こどもだから、たすけられないのですか?」
「そうではない。猫に襲われないように保護したり、我々大人に知らせるだけでも十分
雛の助けになっているのだ。それを巣に戻すとか言う危険な仕事は大人の役目だ」
「どうしてですか? わたしはこどもですが、ちゃんとすにかえしてやれました」
「そうだな。だが、その後はどうだった。親鳥に突付かれて、木から落ちた。そして……
キクチヨは、怪我をしたのだろう。それでは役目を終えた事にはならぬ」
「…………」

 少々手厳しいかも知れなかったが、続ける。ヘイハチは賢い子供だ。

「わかるな。子供はいざと言う時、己の身を守れぬ。子供であるが故に、経験が無い
からだ。最後までやり遂げられぬ事は、その者の役目ではない。お主は、己の役目を
見誤ったのだ」
「……わたしの、やくめ」
「そう。お主の役目は雛を安全な場所に移し、そしてわしら大人に知らせる事だった。
そうすればキクチヨは怪我をせず、お主も罪悪感に苛まれる事も無かった」
「わたしが……みなさんのちゅうこくをきかなかったから……」

 俯くヘイハチ。カンベエは視線を保育園の門に向ける。

「だが、お主はもうわかっていたであろう。己の役目を違えた事を。それを気付かせて
くれたのは……誰だった?」

 役目を間違えなければ、彼を傷付けてお前が苦しむ事は無かったと。

「それは……」

 カンベエの視線を追った先には、キクチヨの帰りを待つかのように門の上に座る姿。

 そう、叱ってくれたのは。

「キュウゾウ、どの……」

 小さく謝罪と嗚咽を洩らすヘイハチの背中を優しく叩いて、カンベエは微笑んだ。

「良い、友を――持ったな」





 キクチヨがゴロベエと共に戻って来たのは、昼を三時間程過ぎた頃だった。

「ああ――――ッ!!! おっちゃまです!!」
「よおオメェら、心配かけたな! キクチヨ様、復・活!!」

 ぶしゅーっと蒸気を噴いて、キクチヨはガッツポーズを取って見せる。

「せんせい、けがはもういいんでげすか?」
「おうよ! マサの字の腕は確かだぜ」

 笑って右手をひらひらと振って見せた。完全に元通りだ。

「よかった……」
「キクチヨ」
「お、カンベエ。今戻ったぜ」
「調子は良いようだな」

 二人を出迎えたカンベエは、僅かに含み笑いのような仕草をした。

「? 何だよ」
「いや……お主に話がある者がおってな」
「話?」
「ああ。……ほれ」

 とん、と背中を押されて転び出て来たのはヘイハチ。
 暫く視線を泳がせていたが、やがて意を決したようにキクチヨに向き直った。

「せんせい!」
「お……おう?」
「ごめんなさい!! それから、ありがとうございました!!」

 ぐん、と風を切る勢いで頭を下げる。その勢いにキクチヨの方が気圧されたようだ。

「あ、いや……いいって事よ」

 照れ隠しのように頭に手をやるキクチヨ。ヘイハチはいつも通りににっこりと満面の
笑みを浮かべ、もうひとつあるんです、と言った。

「わたし、きめました」
「何を?」
「せんせいをいっしょうめんどうみます!!」

 たっぷり十秒間。

「……は?」

 キクチヨが言えたのはその一言、いや一音だけだった。
 物凄い既視感を感じる。

「わたしはおおきくなったらせんせいせんぞくのきかいいしになります!! そうしたら
せんせいのけがをなおしてあげられます!」

 ヘイハチの瞳はどこまでも輝いている。

「あ、あのな、ヘイハチ?」
「けがをさせてしまったからには、おとことしてせきにんをとらねばなりませんし……」
「どーいう事だよカンベエッ!!!」

 思わず園長に掴み掛かるキクチヨ。しかしカンベエも困惑気味だ。

「いや、責任云々の辺りはわしも初耳だ」
「そうじゃねぇだろ問題は」
「何か色々と思う所があったらしいな」

 子供の思考回路は良くわからん。
 ぼそりと呟くカンベエに更に言い募ろうとしたその時。

「…………いま、なんといった」

 何故か妙に殺気を孕んだ声が、背後から響いた。
 振り返れば、普段通りの無表情の筈なのにどこか恐ろしげなキュウゾウの姿。
 と言うか、何故保育園児を恐ろしいなどと思わねばならないのだろう。とキクチヨは
自問したが答えは出ない。

「わたしがせんせいのめんどうをみる、といったんですよ」
「せんせいはおれがしあわせにする」
「しりませんよう、そんなこと」

 二人の園児の睨み合い。この一種異様な光景に、キクチヨはもう既に無い筈の血の
気が一気に下がって行くのを感じていた。
 否、これは寧ろ悪寒と呼ぶべきか。
 て言うかこいつら仲良くなり掛けてたんじゃなかったのか。
 最近の園児は皆こうなのか。

 などとツッコミたい事は山程あれど、今のキクチヨに出来た事は調子が悪い(仮病)
と言ってマサムネの所へ避難する事だけだった――。



       終



拍手で物凄い萌えネタを頂いちゃったんですが、
いざ書いて見たらあんまり面白くならなかった(爆)。拍手ネタのがまだマシだ。
ヘイさんが機械医師を志望する動機を考えてたら何だかエセシリアスに……。