第一話 宇宙人とライオン、ファーストコンタクト



 身を切るような寒さが漸く薄れて来た五月、北海道ではやっと桜が咲き始めた。ひら
ひらと舞い落ちる花びらを無感動に眺めながら、宮口久蔵は平和だ、と呟いた。他の
学生が他愛無いお喋りをしながら久蔵を追い抜いて行くのが、よりその思いに拍車を
かける。外国ではやれ民族紛争だ核実験だと騒いでいるが、この日本にいる限りは
そんな騒動と久蔵は無縁だった。現に自分はこうして今日も恙無く登校中である。
 別に波乱万丈な人生を求めているわけではないが、面白い事があるでもない。学校
生活は単調な授業の繰り返し、幼い頃から続けている剣道も周りが弱過ぎて続ける
意味が見付からない。高校に上がれば少しは骨のある相手もいるだろうと高を括って
いたが、期待外れだった。
 己を高揚させる存在に出会えない。それは久蔵に取って、生きる理由を失わせる事
だった。何を見ても何をしても、誰と会ってもつまらない。久蔵の瞳に映る世界は色を
失い、そして久蔵はそんな世界から目を背けた。
 世界は何一つ、久蔵の欲しいものを与えてはくれないのだ。

「おや、久蔵君ではないですか。おはようございます」

 背後から掛けられた声に、久蔵はしまったと思った。つい考え事に耽ってしまった。
目だけで後ろを振り返れば、いつもの恵比須顔がのんびり歩いて来るのが見える。

「…………」

 無視してさっさと歩き出すが、相手は気後れもせずに小走りに久蔵に並んだ。

「待って下さいよぉ。クラスメイトの誼、教室まで共に行こうではありませんか」
「……下らん」
「そうそう、この間発売されたおにぎり、知ってます? 私もコンビニのおにぎりなんて、
と思っていたんですがねぇ。これが意外や意外、中々に美味なんですよ」
「…………」

 人の言い分を無視して勝手に喋り続ける相手に、久蔵は辟易した。二年生になって
からと言うもの、毎日のように繰り返される笑顔の襲撃。普段は姿を見ればすぐ身を
隠すのだが、今日は油断してしまっていたようだ。己の迂闊さに舌打ちする。

「久蔵君、私の話聞いてますか?」
「…………」

 しかし残念ながら今は登校中。目的地は一緒なのだから方向転換をするわけにも
行かない。出来るだけ早足で歩くのだが、のほほんとした顔に似合わず平然と付いて
来る。返事をするのも煩わしく、無言で拒絶をアピールするが、それを一体どう取った
のか相手はあぁ、と手を叩いた。

「久蔵君……さては私の名前、覚えてないんでしょう? 平八ですよ、林田平八!」
「…………」
「やだなぁ、もう一ヶ月になるんですからクラスメイトの名前くらい覚えて下さいよ」

 別に忘れているわけではない。単に呼ぶ必要も意思も無かっただけだ。
 林田平八。今学期から久蔵と同じクラスだ。この生徒は新学期の初日から、久蔵に
馴れ馴れしく話し掛けて来た。無口でクラスの誰とも会話を交わさない久蔵をお節介
にも心配しているのか、何かと煩く纏わり付いてくる。
 だが、はっきり言って久蔵は迷惑だった。周囲の連中が無表情で何も語らない己を
恐れ、腫れ物に触るようにも近付かないのならそれはありがたい事だ。お陰で面倒な
人付き合いなどしなくて済む。それなのにこの平八は、無理矢理久蔵を人の輪の中に
組み込もうとする。平八のようにいつも愛想良く振舞って友人も多く、尚且つ彼自身も
話好きならばそれは別段おかしな事ではないのだろう。しかし、久蔵に取っては苦痛
でしかないのだ。大体、話し相手が欲しいのなら他の奴らで充分だろう。「宇宙人」と
渾名される久蔵にわざわざ近付く意味がわからない。しかも名前呼び。不愉快だ。

「……不愉快だ」
「え?」

 思わず口に出してしまっていた。聞こえなかったのか、平八が僅かに首を傾げる。
 この際だ、と思い久蔵は足を止めた。言葉を紡ぐのはあまり好きではないが、この
手の輩は幾ら態度で示しても理解しないのだ。この一ヶ月で充分過ぎる程学んだ。
 急に足を止めた久蔵を訝って、平八が少し進んだ所で振り返った。横を通り過ぎる
女生徒の甲高い声が耳障りだ。

「一つ……言っておく」
「久蔵君?」
「二度と、俺に近付くな」
「……久蔵く」
「迷惑だ」

 淡々と告げて、平八の横を通り過ぎて行く。一度強く睨み付けておいたから、これで
少しは大人しくなるだろう。平八が久蔵の背に何か言おうと口を開きかけるが、思い
留まったようだった。
 漸く静かになると一息付いて視線を上げる。その瞬間、久蔵は固まった。

 桜舞い散る校門前、見慣れぬ生徒が立っていた。

 まず目に付いたのは、その髪の色。肩の下まで伸ばした鬣を思わせる散切り髪は
鮮やかな橙色をしている。そこに桜の花びらが幾つか引っ掛かって、まるで髪飾りの
ように良く映えた。久蔵と同じ黒の学生服に包まれた背は高く、周囲の学生たちから
頭一つ分抜きん出ている。髪と同色のきりりとした眉の下にある目は、桜を見上げて
きらきらと輝いていた。
 ふと、彼の目の前に花びらが一枚降って来る。それをゆっくりとした動作で受け止め、
柔らかく微笑む。

 その刹那、世界に色が戻った。

「――――!!」

 あれ程煩かった話し声も、平八のおや見掛けない顔ですねぇなどと言う声も、最早
久蔵の耳には届かなかった。風が吹くように、唐突に戻った色に戸惑う。
 空は、桜とは、こんな色をしていたのだったか。

「……久蔵君?」

 無意識にふらりと一歩進み出た久蔵は、突然鳴り響いたチャイムに我に返った。

「!」

 気が付けば、彼の姿はどこにも無い。予鈴に慌てた生徒たちに紛れて学校へ入って
しまったのだろうか。急いで久蔵も校門の中に駆け込んだ。……いない。あの身長だ、
そうそう見失う筈も無かったのに。一体何処へ。

「…………ッ」

 昇降口へ走りながら、久蔵は自分の行動に驚いていた。どうして、こんなに気になる
のだろう。わからない。わからない。わからないが、ただ。ただ、見失いたくない。
 靴を履き替えるのももどかしく、校舎の中へと走り出す。が、その久蔵の腕を平八が
掴んで引き止めた。

「!?」
「ちょっ……待って下さい、どうしたんですか、久蔵君! 急に走り出して」
「邪魔をするなッ!!」

 珍しく声を荒げた久蔵に、平八は線のような目を一杯に見開いた。しかし、腕を掴む
手は緩めない。

「今日の久蔵君変ですよ! 一体何があったんです!?」
「変だと……?」

 友達面をする平八に本気で怒りが湧く。お前に俺の何がわかる。やっと……やっと、
見つけたかも知れないのに。

「…………」
「っ久蔵君!」

 無言で平八の腕を振り払い、踵を返す。だが、前方から歩いてくる教師の姿に足を
止めた。

「ん? お前達二年か? いつまでもこんな所で何やってる。もうHR始まるぞ」
「…………」
「は、はい」

 流石に教師が目の前では、素直に行かせてはくれないだろう。仕方が無い。久蔵は
答えず二階の教室へ向かった。


「……………………」
「なー、林田ぁ」
「はい?」
「……どしたん? あれ」
「え? あ、あぁ……」

 どこか怯えたような様子のクラスメイトに、平八は指先で頬をかいた。声を落として
示されたのは、全身から不機嫌のオーラを放出する久蔵その人。彼の窓際最後尾の
席周辺はぽっかりと穴が開いたようだ。肌寒さまで感じるそこはツンドラ地帯の如く。
これでは付近の者はたまったものではない。HRさえ始まれば否応無しに着席せねば
ならないだろうが、何故か今日に限って担任は姿を見せない。

「いやあ実は……私が怒らせちゃったようでして」
「うえ、マジかよ。宇宙人にマトモに話し掛けられんのお前だけなんだぜ」
「いやはや、面目無い……」

 手を合わせて謝りながら、平八は宇宙人こと久蔵に目を向けた。

「……何だって言うんでしょうね、全く……」

 宇宙人と言う渾名が示す通り、久蔵は何を考えているのか全くわからない。口数は
少ないし表情にも乏しい。常に近付き難いオーラを纏っている為意思疎通も困難だ。
それでも平八は何とか仲良くしたいと思っている。何故なら、平八とある意味共通する
思いを、久蔵は持っていると感じたからだ。しかし。

「待たせたなー。HR始めるぞー」

 突然がらりとドアが開き、担任が顔を出した。生徒たちがバタバタと席に付いて行く。
遅かった、と声を掛ける生徒にまだ若い担任は悪い悪い、と悪びれもせず謝る。

「その代わり、土産があるぞー。喜べ女子、転校生だ。男の」
「えー!!」
「うそ、マジー?」

 転校生、の言葉に女子だけでなく男子もざわざわとどよめく。ただ久蔵と平八だけが、
ある種の予感に顔を上げた。

「じゃ、入ってくれ」
「おうっ」

 担任の声に返事が返り、頭をぶつけないよう少し身を縮めて教室に入って来る。

「――――!!」

 ライオンの鬣を思わせる髪の毛、見上げるような長身。

 その姿を見て、久蔵は息を飲んだ。ガタン、と椅子が音を立てたが生徒たちの声に
かき消されて聞こえなかったようだ。

「すっげ……」
「背高ぇ〜」
「外国人みたいね」
「かっこいい〜」

 転校生が教卓の隣に立つと、黒板に名前を書き終わった担任がにこやかに言った。
どうやら教え子達の反応にご満悦の様子。

「転校生の三船菊千代君だ。皆仲良くするように」
「三船だ、よろしくっ! 気軽に菊の字って呼んでくれ!」

 片手を上げてにっこりと笑う菊千代。そうするだけで、長身による威圧感が霧散する。
後に残るのは子供のような、人懐っこい笑顔だ。久蔵は思わず、彼に――菊千代に
駆け寄りたい衝動に駆られる。
 まさか、まさか、こんな事が。見失った光が、また現れてくれるなどと。

 ――三船、菊千代。

 唇で彼の名前を綴る。それはまるで、刻印のように久蔵の中に刻み付けられた。

「じゃあ席は……宮口の隣だな。面倒見てやれよ」
「!!!」

 臆面も無く発せられた担任の言葉に、今度はクラス全員が息を飲む番だった。転校
して来たばかりの彼を、よりによって今あの宇宙人の隣に置く事はないじゃないか。と、
言いたくてもそれを口に出せる勇気のある者はいない。教室の後ろへ向かう菊千代を
見送りながら、誰もが「ご愁傷様」と心の中で手を合わせた。そんな彼らの目の前で、
その事件は起こったのだった。

「よろしくな! え〜っと……」
「宮口……久蔵だ」
「キュウゾウか、カッコイイ名前だな!」

 菊千代がにこっと笑顔を向けた途端。久蔵が僅かに目を見張り、そして。

 笑ったのだ。

「……………………!!!」

 あの久蔵が他人の言葉に返事を返すだけでも驚きなのに、笑顔。笑顔である。
 ほんの少し、口の端を持ち上げるだけでも、それは紛れも無く笑顔だった。

「なぁ、久蔵って呼んでもいいか? 俺苗字で呼ぶのって堅っ苦しくてよ」
「…………ああ」
「ありがとな、久蔵! あ、俺の事は……」
「わかっている……菊千代」

 二度目の、笑顔。
 菊千代の和やかなオーラに当てられたのか、最早久蔵は言葉の通じないエイリアン
ではなくなっていた。そこらにいる、無口な男と変わりない。
 担任を除く教室中の人間が驚愕に打ち震える中、久蔵は更に仕出かしてくれた。
 ふと何かに気付いたように目を止め、菊千代の髪に手を伸ばす。

「久蔵?」
「……付いている」

 久蔵の指先には桜の花びらが抓まれていて。菊千代はあら、と体のあちこちに手を
やった。

「っかしいな、ちゃんと外で払って来たのに」
「もうない」
「お、そうか?」

 悪い、と笑う菊千代に問題無い、と返して見せる。その姿に、HR前の吹雪のような
気配は微塵も感じられない。信じられない事だが寧ろ春だ。あの久蔵を一瞬でこうも
丸くしてしまうとは、菊千代とは一体何者なのだろう。

「あ、そーいや俺まだ教科書全部揃ってないんだったぜ」
「……どれだ」
「んっと、英語と美術」
「美術は無いな」
「そんじゃあ英語だけ頼むわ」
「承知」

 菊千代に向けられる視線は好奇心から尊敬に変化し、やがて彼の噂はあっという
間に学校中に広まる事になる。

 曰く、「宇宙人のクラスにライオンみたいな救世主がやって来た」――と。



       続く



キレる17歳、久蔵(笑)。
取り敢えず出会いました。