第二話 それは全てを照らす太陽の如く



 HRが遅くなってしまった為、一時間目はすぐに始まった。科目は担任が教える現国。
しかし久蔵の耳には授業内容など全く入って来なかった。
 すぐ隣に、菊千代がいる。
 その事実が久蔵の心を落ち着かなくさせていた。

「…………」

 髪の毛に隠れるようにしてそっと盗み見る。菊千代は担任の言葉に熱心に耳を傾け、
黒板の文字をノートに写し取っていた。その様はどこか楽しそうですらあり、つい気に
なって久蔵は口を開いた。

「……好きなのか」
「ん?」

 菊千代が手を止めてこちらを見る。その輝く目がこちらを向くのが嬉しくて、久蔵は
苦手である筈の言葉を更に重ねた。

「好きなのか、現国」

 聞かれて、菊千代は少し驚いたような顔を見せる。んー、と小さく唸ってから返した。

「別にこの授業がってんじゃねぇんだよな」
「……?」
「何つーかこう……普通に学校生活っ……」

 半ばで突然言葉を切る菊千代。その顔はしまった、とでも言うような表情を浮かべて
いる。菊千代の様子の意味がわからず、久蔵は僅かに瞬きした。

「菊千代?」
「――や、忘れてくれ」

 慌てて机に向き直る菊千代。久蔵は不可解な思いを拭えていなかったが、担任が
文字を書き終わりこちらを向いたので口を噤んだ。
 これ以上話し掛けて、菊千代に迷惑が掛かるのは久蔵の本意ではない。

 また、休み時間に聞けばいい。

 久蔵は取り敢えずそう決めて、教科書に目を落とした。



 そんな己は相当読みが甘かったのだと、久蔵は今非常に痛感していた。

「ね、どこから転校して来たの?」
「何かスポーツやってた?」
「身長幾つなんだ?」
「今はどこに住んでるの?」

 終業のチャイムが鳴り、担任が教室を出た途端。
 クラスの半分近くの生徒に菊千代は取り囲まれてしまったのだ。それは正にあっと
いう間の出来事で、久蔵が口を挟む隙など無いに等しい。
 いつもなら久蔵の存在が生徒たちのそう言った雰囲気を壊してしまうのだが、授業
前に久蔵自身が見せた笑顔がその通例を無い物としていた。しかし本人はその事に
気付いていない。第一、彼は自分が生まれて始めて微笑んだ事さえも知らないので
ある。
 明るい笑顔で質問に答える菊千代に何度も声をかけようとして失敗する久蔵の姿を
見兼ねて、平八は席を立った。久蔵の様子がおかしかったのは、恐らく菊千代が原因。
理由まではわからないが、あの久蔵が笑顔を見せるなど相当な事だろう。平八自身も
菊千代には興味がある。
 ひょいひょいと人だかりに近付き、平八は声を上げた。

「やあやあ菊千代君、我がクラスへようこそいらっしゃいました!」

 全員が振り返った隙を突いて、するりと菊千代の席へ近付く。

「わたくし学級委員をしております林田平八、と申します。以後お見知り置きを」
「おう、よろしくな!」

 講談を意識し大袈裟に握手を求めれば、菊千代は盛大に笑って握り返してくれた。
やはりこう言う冗談をわかってくれる相手はやりやすい。
 すると女生徒の一人がそうそう、と思い出したように声を上げる。

「あのね、林田君って凄いのよ。中学生の頃はアメリカに行ってて、何とたった三年で
向こうの……えっと、MVPとか何とかって凄い大学を卒業しちゃったの!!」
「それを言うならMIT。マサチューセッツ工科大学ですよ」
「ほお〜、オメェ天才なのか」
「いやいや、私など。それより……」

 威嚇するように睨め上げる久蔵に小さくウィンクを送って合図し、平八は続ける。

「こちらの久蔵君の方が。小学生の時から生涯敗北無し! 剣道の申し子とは彼の事
ですよ」
「……!?」
「一回も負けてねぇのか! スゲェな久蔵!!」

 突然皆の視線を一身に受け久蔵が瞠目するが、菊千代の尊敬の眼差しに僅かに
頬を染める。全く急激に変わり過ぎだと思いつつ、平八は手を広げた。

「……とまぁこのように文武両道の天才が揃うクラスなど滅多にありませんよ。おっと
自分で言っちゃあいけませんか」

 こりゃ失敬、と額を叩けばどっと笑いが巻き起こる。流石の平八でも久蔵の笑いは
取れなかったが、フォローは出来ただろう。タイミング良く始業のチャイムが鳴り響き、
生徒たちがわらわらと散って行く。皆が離れたのを見計らって、平八は菊千代と久蔵
二人の机に手を置いて言った。

「良ければこの後、校内をご案内しますよ。久蔵君と二人でね」
「!」
「おうっ、ありがとな平八!」

 仕掛けも上々。礼を述べる菊千代に片手を上げて応えて、平八は満足げに自分の
席に戻った。次の時間は英語だ。教科書を一緒に見る為に机をくっ付けている二人の
姿をちらりと見遣り、笑う。

「一種の猛獣使い……って所でしょうかねぇ?」





「平八よぉ……オメェの弁当変わってんなぁ」
「そうですか? 私はいつもこんなですよ」
「…………」

 暖かな日差しがさんさんと降り注ぐ屋上で、久蔵と菊千代、平八の三人は和やかに
弁当を広げていた。否、和やかなのは菊千代と平八だけ。久蔵は相変わらずの仏頂
面でパック牛乳を啜っている。そのあまり良いとは言えない視線は、さっきから延々と
平八に向けられていた。ひょっとしたら、いや、きっと邪魔に思われているのだろう。
早々に包みを広げた平八の手元を覗き込んで、菊千代が何とも言えない顔をする。
それもその筈、平八の弁当箱にはおにぎりがみっちり詰まっていたのだから。そこに
おかずと名の付く物は入っていない。それでも「米をおかずに米を食える」と豪語する
平八にとっては何らおかしな事ではなかった。

「やはり日本はいいですねぇ。何と言っても米が美味い! アメリカじゃまともな米が
食えなくてうっかりノイローゼ気味になりましたしね。日本人に生まれて良かったなぁ」
「……マジかよ、シャレんなんねーぞ」
「…………」

 アメリカ最高の大学を飛び級で卒業しながらわざわざ日本に戻って来たのはその為
なのか。思わず平八と言う男の認識を改める菊千代だった。
 そんな事を思いながらふと久蔵に視線を移し、菊千代は少し眉を顰めた。

「久蔵……オメェも何食ってんだよ」
「……?」

 菊千代に声を掛けられて、先程よりは機嫌が良くなったが不思議そうな顔の久蔵。
その手に握られているのはコンビニか何処かで購入したであろう惣菜パン。菊千代は
思い切り溜息を付いた。

「オメェといい平八といい……食生活が不健康過ぎるぜ」
「…………そうなのか」
「心外ですなぁ。私には最高の弁当なんですよ」

 まるで知らなかったと言うような久蔵に本気でそう思っているらしい平八。天才って
奴は皆こうなのか、と呆れつつ自分の弁当箱からレタスにくるまれた可愛らしいミート
ボールを久蔵に差し出した。

「?」
「これやる。ちゃんと野菜も食えよ」
「…………」

 まじまじとミートボールを見詰めたままの久蔵に待ち切れなくなり、菊千代はホレ口
開けろ! と半ば無理矢理久蔵の口に詰め込んだ。もぐもぐと咀嚼し飲み込んだのを
確認してよし、と満足そうに笑って頷く。かたじけない、と呟いた久蔵の頬はごく僅か
だが赤みが差していた。おやおやと平八は微笑み、おにぎりを一つ抓んで菊千代に
差し出す。

「では私とも物々交換と行きませんか?」
「おういいぜ。どれが欲しいんだ?」
「そうですねぇ、では卵焼きを」
「おっしゃ」

 などと平八が菊千代と戯れている間、久蔵はミートボールと共に飲み込んだ何かが
腹の内でじわりと広がって行くのを感じていた。やはり、と思う。

 菊千代は、他の奴らとは違う。

 初めてその姿を見た時から、菊千代は久蔵の世界で酷く異彩を放っていた。全てが
鈍く霞む世界の中で、菊千代だけが鮮烈な色彩と言う光を持っていたのだ。
 世界の全てを照らす程の強い、しかしとても柔らかな光。
 菊千代の光はまるで春の日差しが雪を溶かすように、久蔵の心の何かを解かした。
 漸く、出会えたのだ。

 己の心を、激しく突き動かす存在に。



 片付けをして教室に戻ろうと階段を降りていた時、平八がそうだ、と手を叩いた。

「今日の放課後、菊千代君の歓迎会を兼ねて美味しい物でも食べに行きませんか? 
駅前に面白い店が出来たそうなんですよ」
「ほおー」
「久蔵君も来るでしょう?」

 菊千代が行くと言えば、問答無用で久蔵も付いて来るだろう。そう思って言ってみた
のだが。

「あー悪い、俺今日はちょっと用事が……」
「……用事?」

 鸚鵡返しに尋ねる久蔵に、すまなそうな顔で苦笑する菊千代。

「こっちに来たばっかりだから、そろそろ顔出さねぇといけねぇんだ。また今度な!」

 そう言って、軽やかに階段を駆け下りて行ってしまった。菊千代を追おうとスピードを
上げ掛けた久蔵の背中に、平八は試しにある質問を投げてみた。

「久蔵君って、菊千代君のこと好きだったりします?」

 久蔵の動きが一瞬、止まる。

 その随分素直な反応に、思わず笑みが零れる。今更確認する事でもないが、久蔵
本人はそれをどう受け止めているのかが気になった。
 久蔵はちらりと平八に視線を投げ、ポツリと呟く。

「何……だと?」
「だってそうでしょう? 菊千代君と一緒にいる久蔵君は、とても楽しそうですから」
「俺が……」

 久蔵は少し考え込んでいたようだが、やがて緩やかに口を開いた。

「好き、と言うのか……よく、わからん。だが……」

 それは平八に、と言うよりは自分に向けているような言葉だったが。

「……あいつを……菊千代の笑顔を、見て、いたい」

 その顔には、常では考えられないような穏やかな表情が浮かんでいて。
 平八はそうですか、と微笑んだ。
 もう用は無いとばかりにさっさと階段を降りて行く久蔵。その姿が見えなくなってから、
笑って言ってやる。

「それが、好きだってことですよ」

 鈍い人だ、と額に手をやって、仕方ない手伝ってやろうと心を決めた平八だった。





「菊千代」
「ゴロの字」

 校門を出た所で、菊千代は声を掛けられ振り返った。門柱の横に背中を預けていた
五郎兵衛が菊千代に歩み寄り、くしゃりと頭を撫でる。

「どうだった。久し振りの学校は」
「……悪くねぇよ。面白ぇ奴もいたしな」
「もう友達が出来たか。そいつは良かった」

 手を離し、菊千代の肩をぽんと叩く五郎兵衛。

「車は向こうに止めてある。さ、行くぞ。これからはあそこが……某達の本部だ」
「……おう」

 五郎兵衛に促されて歩きながら、菊千代は学校を振り仰いだ。

 この場所には、この国には、大勢の何も知らない人がいる。
 知らないまま、日々を過ごしている。
 久蔵も、平八も。

「これからもずっと……そうならいいのによ」

 叶わない願いだと知りつつも、菊千代は願わずにはいられなかった。


 それは確実に、近付いて来ている。





       続く



久蔵が恋する乙女みたいでキモイ事この上ない(爆)。
ヘイさんはアメリカ帰りなのでそっち系には寛大です。
お侍言葉の違和感は見逃して下さると嬉しい(笑)。