第三話 恋愛ファーストステップ



「よっしゃあ終わったァ! 何か食いに行こうぜ!」

 土曜日最後の授業が終わると同時に、菊千代が席を立った。手早く荷物を纏めて、
久蔵と平八も立ち上がる。

「そうですねぇ、私としては……」
「おにぎりは却下な!」
「ええっ!?」

 昼食のリクエストを述べようとした所を即座に斬り捨てられて、ショックを受ける平八。
ワザとらしくムンクの「叫び」を真似る平八を放って、菊千代は久蔵を振り返った。

「久蔵は?」
「……何でも」
「オメェいっつもそれだよなぁー」

 呆れたように息を吐いて、菊千代はカタンと肩を落とす。
 この二人の偏食と言うか食への無関心振りは、二月経っても変わらない。
 米マニアの平八はともかくとして、久蔵は好き嫌いがあるわけでもないのに食事に
全く頓着しないのだ。今まで良く生きて来られたなと菊千代は感心する事頻りだ。

「じゃあ俺様勝手に決めるからな!」
「はぁーい」
「わかった」

 転校して来てからと言うもの、すっかり変わり者コンビの給仕――否、給餌役が板に
付いて来た菊千代である。
 怒ったように肩を怒らせて教室を出る菊千代を追う久蔵、その後ろを平八が笑って
付いて行く。

「菊の字ー、子守りお疲れー」
「お前らまたなー」
「おーう、また来週なー!」

 道々、クラスメイトの声に手を振って答える菊千代。
 宇宙人を手懐けたライオンはその容貌も相俟ってすっかり有名になり、今では三人
セット販売で扱われる程になっていた。実際、久蔵は菊千代と一緒にいられれば人が
変わったように大人しくなるのだ。級友達はこれ幸いと菊千代を『久蔵係』に任命し、
今までその任に当たっていた平八もそのまま係に組み込まれている。お陰でクラスの
空気はすっかり明るくなり、いつしか何をするにも三人で連むようになっていた。
 最初の頃は平八を邪険にしていた久蔵だったが、平八が久蔵の恋――それを恋と
呼ぶものか久蔵には良くわからないが――を後押ししていると気付いてからは、気に
しなくなった。かと言って特別友好的になったわけでもない。
 そんな事情もあって平八としては一歩下がった所から見守っているつもりなのだが、
こと食事に関しては確実にお守りの対象のようだった。

「お米ほど素晴らしい食べ物はこの世にないんですがねぇ……」
「何やってんだ平八、置いてくぞー」
「あー、待って下さーい!」





 昼食を済ませて表に出ると、真昼の日差しが三人を照らし付けた。

「うお、眩し……」
「最近は本当にいい天気ですよね。雨も降らなくなって来たし」
「いくら北海道つったってもう七月だもんなぁ」

 日毎に強さを増す太陽の熱が、北海道の短い夏の訪れを知らせている。

「そう言えばもうすぐ夏休みですねぇ」
「あー……あと二週間とちょっと、ってとこだな」

 指折り数える菊千代に、平八はにっこりと笑いかけた。

「夏休みは皆でどこか行きませんか? 来年は受験でそれ所じゃないでしょうし」
「お、いいなそれ! まあ道内しか無理だろうけどよ」
「でも菊千代の故郷は向こうでしょう? 里帰りついでに遊びに行くってのは?」
「あ、う、まあ。んー…………どうだろな」
「…………?」

 どうも歯切れが悪い。
 故郷に嫌な思い出でもあるのだろうか。

「まあそれよりまずは今日だろ、今日! これからどこ行くよ?」
「そうですねぇ……」

 と、平八が首を傾げた時。

「菊千代!!」
「!?」
「え?」
「あっ……」

 三人が歩いていた歩道のすぐ隣に車が停止し、運転席からスーツの男性が慌てた
様子で走り出て来た。
 浅黒い肌に白い髪、格闘技の選手も斯くやの体格の良さ。その身のこなしはどうも
一般人のそれではない。一介の高校生には良くわからないが、何か第六勘のような
ものが、二人にその男を只者ではないと感じさせている。
 それは剣道で培った精神の賜物か、アメリカと言う環境で染み付いた感覚か。

「……何者だ」
「さあ……」

 見知らぬ男から目を離さずに、二人はほんの少し身構えた。
 しかしそんな友人の警戒を他所に、菊千代は慣れた様子で男に駆け寄る。

「ゴロの字! どうしたんだよ、一体」
「菊千代……不味い事になった」
「え?」
「Nobodyが……」

 そこで男性は背後の久蔵達に気が付いたようだった。しまった、と言ったような顔で
口を噤む。
 菊千代もそれに気付いて、取り繕うように言った。

「あ、久蔵、平八。コイツは五郎兵衛って言って、俺の――まあ、兄貴みたいなもんだ。
ゴロの字、こいつらは俺の」
「久蔵君と平八君か。いつも菊千代から話は聞いている」
「…………」
「ど、どうも」

 反射的に礼をする平八と違い、鋭い視線を五郎兵衛に送る久蔵。
 久蔵はそれが子供染みた独占欲の現れだとは気付いていない。
 その視線を受けて、五郎兵衛は少し笑んだようだった。

「菊千代が世話になっているな。感謝する」
「いえ」
「さて……すまないが、菊千代を少し借りるぞ。大事な用件があってな」
「は、はあ」

 五郎兵衛が肩を抱くようにして菊千代を車に誘う。

「行くぞ」
「おう……じゃあ、な」

 二人を見て、すまなそうに笑う菊千代。そこに僅かに滲む別の色を感じて、久蔵は
思わず菊千代を呼び止めていた。

「――――菊千代!!」
「……久蔵……?」
「……ッ」

 菊千代が振り返って久蔵を見詰める。
 久蔵は言葉を探すように一度拳を固く握り締め、そしてゆっくりと開いた。

「明日」
「え……?」
「明日、学校裏の展望台に。……話がある」
「お、おう。わかった」
「忘れるな」

 それだけを告げて、久蔵は自分から菊千代に背を向けた。

「久蔵!?」

 これ以上、あの男――五郎兵衛と一緒にいる菊千代を見たくなかった。
 あんな風に、菊千代に触れられる存在など。
 胸がむかむかする。
 腹の中に、蛇でも飼っているような気分だ。
 その真っ黒い蛇が質量を増し、久蔵の心臓に毒の牙を突き立てている。
 流れ出す血を吸って、蛇は更に大きくなる。
 じくりじくりと傷が痛む。
 蛇を吐き出す場所が見付からない。
 体が重い。
 眩暈がする。
 これは何だ。

「久蔵君!」
「ッ」

 肩を掴まれて、足を止める。振り向けば、息を切らせた平八が視界に入った。

「大丈夫……ですか?」
「…………」

 どう答えていいのかわからない。
 胸の内で黒くうねる感情を持て余す。
 何もかも、全て吐き出してしまいたい。

「俺は、あいつの事を……知らない」
「…………」

 東京から引っ越して来て。
 橙色の髪の毛は見た目より柔らかくて。
 勉強は苦手だがスポーツは得意で。
 面倒見が良くて。
 明るい笑顔が眩しくて。

 そんな事しか、知らない。

「何か……隠しているのは知っている。時々、不意にいなくなる時、何かに耐えている
のはわかっている」

 放課後、級友たちに挨拶もせずに、誰にも気付かれないように姿を消す時。
 そんな時は決まって、菊千代は浮かない顔をしていた。
 携帯の画面を見詰めて、太い眉根を寄せて、溜息を付く。
 それでも、誰かが声をかければすぐさまいつもの笑顔に戻るのだ。
 けれど、久蔵にはわかっていた。
 菊千代の笑顔に僅かに滲む、違う色が見えていた。
 感情と言うものに疎い久蔵には、それがどう言う意味を持つのかわからないが。
 それが菊千代の抱える何かだと言うのは知っていた。

「その意味を知っている……あの、男は」

 常人では有り得ない気配を放つ、五郎兵衛と言う男。
 菊千代の、兄のような存在だと言った。
 あの短い遣り取りだけで、彼が菊千代に取ってどういう人間なのかわかった。
 わかってしまった。

「俺にはわからない、あいつの事を……知っている」
「久蔵君……」





「どうした、菊千代」
「ん……」

 ハンドルを握る五郎兵衛が横目で菊千代の様子を見る。助手席に座る菊千代は、
心ここにあらずと言った様子で窓の外を眺めていた。
 五郎兵衛は軽く嘆息し、からかうように続ける。

「あの久蔵と言う少年……中々面白そうな奴だったな」
「……久蔵が?」
「某をまるで親の敵でも見るかのように睨み付けておったわ」

 根性はあるな、と笑う五郎兵衛に、菊千代は視線を落とす。

「あいつは……結構人見知りするんだよ」

 久蔵。
 明日、一体何の話があるのだろう。
 滅多に喋らない久蔵だから、全く想像が付かない。
 何だか怒っているようだった。
 あんな久蔵、初めて見た。
 菊千代の知っている久蔵はいつも無愛想だけど、とても穏やかで優しかったのに。
 何か、彼の気に障る事をしてしまったのだろうか。
 久蔵に嫌われてしまったのだろうか。
 折角出来た友達なのに。
 やっぱり、隠していた自分が悪いのか。
 久蔵は聡いから、彼らに隠し事をしているのに気付いていたのかも知れない。
 友達だ親友だと言っておきながら、本当の己を見せずに偽って。
 それは久蔵と平八を、親友を、心から信じていなかった証拠だ。
 久蔵は優しいから、今まで見逃してくれていたんだろう。
 なのに、その優しさに甘えて自分は。
 愛想を尽かされても仕方ない。
 最低だ。
 自分はずるくて、卑怯な臆病者だ。

「それは違うな」
「は?」

 突然言われて、菊千代は間抜けな声を出した。
 五郎兵衛は前を見据えたまま、もう一度違う、と言った。

「お前は悪くない」
「何で……」
「気に病むな、菊千代。お前は、お前であればいい」
「……ゴロの字……」

 呆気に取られる菊千代の頭を、伸びて来た左手ががしがしと撫でる。

「まずは、明日だ」
「…………おう」

 そのごつごつとした慣れ親しんだ感覚に、菊千代はそっと目を閉じた。





「どうするんです? 明日」

 己の内に渦巻く感情を多少なりとも吐き出して、久蔵は漸く落ち着いたようだった。
 無理もない。
 本来ならば十数年かけて育てて行く筈の心を、この二ヶ月と言う短期間でいきなり
覚えてしまったのだ。しかも内訳は喜楽と、恋慕と、それから――嫉妬。
 感情の中でも取り分け扱いの難しい部分を一気に発生・爆発させて、久蔵はかなり
疲弊していた。それもこれも、全ては菊千代への執着故に。
 そうまでして誰かを想える久蔵が微笑ましくもあり、羨ましくもある。
 土手の石段に並んで座り、川面に映る夕日を眺めて平八は青春だなぁ、と呟いた。
 制服で、夕方で、河原で、友人の恋の話。これを青春と言わずして何をか言わんや、
である。これで川に石でも投げ込んだら完璧だなと思いつつ、それでは失恋した事に
なってしまうかと考え直す。告白もしないまま失恋は流石に気の毒だ。
 そんな取り止めの無い事をつらつらと考えていると、やっと久蔵が口を開いた。

「…………明日、か」
「そうですよ。話って、どんな話ですか?」
「……考えては、いない……」
「…………」

 平八は軽くコケ掛けた。
 まあ、薄々そうではないかとは思っていたのだ。何せ急過ぎる。
 あのタイミングでは、ああ言うしか無かったのだろう。突然親しげな人間が現れて、
菊千代を連れて行ってしまった。久蔵にして見れば、想い人を横から攫われたような
気分だったのだ。

「……だが」
「だが?」
「これを……渡そうかと思っていた」

 言って、久蔵がポケットから取り出したのは。

「……ペンダント……ですか?」

 身を乗り出して久蔵の手元を覗き込む。その手には一目でメンズ物と見て取れる、
武骨なデザインのシルバーアクセサリー。太陽を模した飾りが長めのチェーンの先に
下がっている。

「これは……?」
「一月前に……買い物に行った時に」
「ああ、あの時ですか」

 休みの日には良く連れ立って遊びに行く三人だ。何度かそう言う店にも寄った事が
ある。そこで久蔵が買い物をしていたとは知らなかったが。久蔵は大体いつも黙って
付いて来るだけで、買い物をするのは菊千代と平八くらいだったのだ。

「これ、菊千代に?」
「……ああ。あいつに、似ているから」
「へえ? どれどれ……」

 太陽の飾りを良く見ると、中心の円の部分に薄っすらと咆哮する獅子の横顔が彫り
込まれてあった。その躍動感溢れる鬣は、確かに菊千代の髪型に良く似ている。

「ああ、確かに。でも、どうして今まで……?」
「…………そ」
「わかりました。渡すタイミングが掴めなかったんですね?」

 聞くまでも無かったと平八は久蔵の言葉を遮り、溜息を付いた。
 プレゼントのつもりで買ったのだろうが、この調子で渡したくとも渡せずにいてずっと
持っていたのだ。ラッピングもしていない辺り、らしいと言うか何と言うか。
 平八は苦笑いを浮かべて、そしてぽんと手を叩いた。

「そうだ!」
「?」
「いい機会ですから、明日これ渡すついでに告白しちゃいましょう!!」
「………………な、」

 告白、の単語に瞠目する久蔵を他所に、平八は自分の案が酷く気に入った様子で
何度もうんうんと頷きながら畳み掛ける。

「そうですよ、愛の告白と言えば贈り物が付き物! ううん、これって怪我の功名って
奴ですかね?」
「告、白?」
「何ぼうっとしてるんですか久蔵君! これはチャンスですよ!?」
「…………」
「好きなんでしょう? 菊千代の事。五郎兵衛さんに嫉妬するくらい」
「っ、……ああ……」

 五郎兵衛の名前に、久蔵の肩が僅かに跳ねる。

「だったら、告白しなけりゃあ始まりませんよ。菊千代は結構鈍いですからね、言葉で
伝えなくては!」
「しかし……」
「うかうかしてると五郎兵衛さんに取られちゃうかもしれませんよ?」
「――――ッ!!」

 勢い良く立ち上がる久蔵。その様を満足げに見上げて、平八はにい、と笑った。

「やる気、出ました?」





      続く





久蔵、初めての嫉妬(笑)。恋と言うものを漸く自覚し始めました。
十年近く付き合った半ドン授業後のあの独特の空気が好きなので、今回だけ復活させて見ました。
一応近未来故に、ゆとり教育とかワケのわからん物は廃止されたと言う世界設定です。