第六話 願わくば、我が親愛なる友人たちよ



 視線の先に、見慣れた背中が立っている。少し長めの髪が掛かるシャツの背中は、
どこもおかしな所は無い。
 空は青く、雲は白い。微かに流れる風が、夏の匂いを運んで来る。勢いを増して行く
太陽の熱が、剥き出しの腕をじりじりと焼く。
 ああ、夢だったのか、という思いが浮かんだ。それもそうだ。夢に決まっている。
 ほっと息を吐いて歩みを進めようとした時、目の前の背中が振り返った。

「久蔵」

 穏やかな双眸が自分を見るのが嬉しくて、思わず口元が綻ぶ。名前を呼び返そうと
口を開きかけて、彼の笑顔が僅かに歪んでいるのに気付いた。

 まるで、今にも泣き出しそうなくらいに。

 心臓がごとりと音を立てる。嫌な予感が足元から這い上がる。

「ごめんな」

 ああ。
 やめろ。
 やめてくれ。

 伸ばした指先は何も掴めなかった。
 音も無く青空に舞い上がる彼の、鋼の翼の先でさえ。





「久蔵君!?」

 教室に入るなり、戸惑いを含んだ驚きの声が久蔵の耳を打った。慌しく駆け寄って
来る平八の頭越しに室内を見渡すが、目当ての姿は無い。

「一週間も休むなんて、一体何があったんです? 先生に聞いても事故に遭ったって
事しかわからないって言うし……」

 矢継ぎ早に捲し立てる平八を遮って、久蔵は低い声で尋ねた。

「菊千代、は」
「………………」

 菊千代の名を出した途端、平八の顔が曇る。その表情に淡い期待は打ち砕かれた
と悟った。
 入院中、看護士の目を盗んで何度と無く連絡を試みたが、菊千代の携帯に繋がる
事は一度も無かった。もしや学校なら、とも思ったのだが。

「一緒じゃ、なかったんですか……」

 落胆し切った平八の声に視線を逸らす。
 そうだ。確かにあの時――気を失うまでは、傍にいたはずなのに。
 目覚めると病院のベッドの上で、菊千代の姿はどこにも無かった。医者から受けた
説明ではガス爆発に巻き込まれ、大きな破片を肩に受けて運び込まれたのだと言う
事だったが、久蔵には信じられなかった。
 覚えていたからだ。
 あの日見聞きした全ての事を。
 久蔵に死んで欲しくないと、自分は『兵器』なのだと告げた菊千代の姿を。

「日曜日……会わなかったんですか、菊千代に」

 縋るような目に、平八も菊千代が心配なのだと気付く。先程の口振りから察するに、
菊千代も久蔵と同じくあの日から学校に姿を見せていないのだろう。だがしかし、今の
久蔵に平八を気遣う余裕など無かった。平八を押し退けて教室の窓へ向かう。
 二年生の教室は二階だが、遮る物が殆ど無い為窓から校庭が良く見えた。HR前の
グラウンドは人気が無く閑散としている。

「……?」

 怪訝な顔で久蔵の隣に立ち同じように視線をグラウンドに転じるが、平八の目には
いつもと変わらぬ砂地があるだけだ。穴が開く程に、一体何を見ているのだろう。
 そんな平八の疑問に気付きもせずに、久蔵はひたすら校庭の表面を探る。だが。

「…………無い……」

 何度見直しても、あの奇妙な機械達が開けた大穴は、影も形も見当たらなかった。
地面には大した隆起も無く、平坦そのもの。
 そんな馬鹿な。
 思わずそう呟く。
 機械達が襲って来たのは日曜日の午後。あの大穴をたった半日で、しかも学校の
誰にも気付かれずに、元通りに塞いだと言うのか。一体誰が。
 ――否。そうではない。例え気付かれたとしても、無かった事になったのだ。久蔵の
負傷の原因が事故になっていたように。
 あの時、近くにいたのは五郎兵衛だ。久蔵の勘が正しければ、あの男は恐らく軍人。
陸海空どこの部隊に所属しているのかまでは知らないが、自衛官である事は間違い
ないだろう。そして多分、菊千代も。
 どちらにせよ、自衛隊が動くからにはそこには政府の意思が介在している筈だ。そう
でなければ、どうして菊千代があんな――……

「――――ッ!!!」

 ずっと校庭に投げていた視線をふと隣の道路にずらした瞬間、久蔵の目にある物が
飛び込んで来た。
 一度見ただけだが、よく覚えている。忘れたくても忘れられない。
 菊千代を目の前で引き離した、あの車だ。

「久蔵君!?」

 突然踵を返し走り出した久蔵の背に、困惑した平八の声が掛かるがチャイムの音に
掻き消される。教室を飛び出し、廊下を疾走する。途中担任と擦れ違った気もしたが、
久蔵の意識には入らなかった。殆ど飛び降りるようにして一階に辿り着き、上履きの
まま昇降口を突っ切った。
 門に向かって全力疾走する久蔵の耳に、車のエンジン音が幽かに届く。

「くそっ……!!」

 行ってしまう。菊千代に繋がる、唯一の足掛かりが。
 知らず、脳裏にあの悪夢が蘇る。どんなに伸ばしても、決して届かない掌。

「菊千代――――……!!」

 待ってくれ。行くな。頼むから。


 門の外へ飛び出した瞬間、視界の端に角を曲がって行く車が映る。追わなければ。
捕まえて、菊千代の居場所を――

「危ないッ!!!」

 襟首を背後から鷲掴みされ、物凄い勢いで背後に引き倒されて首が絞まる。呼吸が
止まり、咄嗟に抗う事も出来ず背中を硬い大地に強かに打ち付ける。どこか遠くで、
耳鳴りのように聞こえる重い振動音はトラックだろうか。

「……っ、は、何、考えてん、ですかぁっ!!」

 倒れたままの頭のすぐ近くで、聞き覚えのある声がする。

「ぼーっと……してたと思ったら、急に走り出して……果ては自殺未遂ですかっ!! 
ふざけないで下さい! 躁鬱病認定しますよこの野郎!!」
「……平八?」

 久蔵の襟首を掴んだまま、息も絶え絶えに身を起こす平八。それでも久蔵を怒鳴る
のはやめない。

「どうしていつも何も言わないんですか!! ……いや、どうせ菊千代と何かあったん
でしょうけども! だからってそんな風に暴走してちゃ命が幾つあっても足りませんよ
全く!! 菊千代を悲しませたいんですか!!!」
「……っ」

 びくりと肩を強張らせた久蔵に、深く長い溜息を付く。

「……頼みますから、少しは私に相談して下さい。仲間でしょう?」
「仲間…………」
「二人とも、一週間も音信不通で、まるで行方不明みたいに。……私がどれだけ心配
したと思ってるんですッ!!」

 若干声を震わせて吐き捨てる平八。そのきつく寄せられた眉根に、久蔵は止まって
いた思考回路が再び動き出すのを感じていた。

「……………………すまん…………」
「初めて、久蔵君に謝って頂きましたね」

 そう言って笑った顔は、いつも通りの恵比須顔だった。





 目を閉じたまま、精神を集中させる。周囲に伸ばした知覚の網を徐々に広げて行く。
人の耳や、ソナーにすら感知出来ない音の波。唯一、辛うじてその存在を感じられる
イルカが数匹僅かに反応を返す。それ以外には、何者も気付かない。
 緩やかな流れに弛緩した身を任せ、青い世界を漂いながら、意識だけは明瞭だ。

(これは海自の潜水艦……他に金属反応は……ないな。この海域からは出たのか)

 近付いて来た気配に目を開くと、発していた音に興味を持ったのか、若いイルカが
一頭すぐ傍を泳ぎ回っていた。その人懐っこい様子に思わず笑みが零れる。
 そっと手を差し出すと、嬉しそうに大きな体を摺り寄せて来る。ゴムのように弾力の
ある体を撫でてやると、キュイー、と鳴いた。優しげな黒い瞳に微笑んで、頭をそっと
抱き締めた。



「……何やってんだか」

 その様子をCICのソナー画面で眺めていた七郎次は、甲板を小走りに駆けて来る
足音に屈めていた上体を起こした。すぐさま扉が開かれて、この艦の下士官が入室
する。報告します、と敬礼をするがかなり緊張している。まだ若いのだろう。

「加東二佐! たった今、片山三佐が到着されました!」
「そうですか。では早速お出迎えに」

 労いの言葉をかけるが、下士官は敬礼をしたまま奇妙な顔をしている。

「は、あの、それが――……」
「待つのが面倒なんで勝手に上がらせて頂きましたぞ」

 そんな台詞と共に、下士官の背後、扉の影から見慣れたスーツ姿が現れた。
 七郎次は呆気に取られる。

「……片山三佐……あたしらは一応、イージス艦(ここ)では余所者なんですがねぇ?」
「何、同じ自衛隊であろう。小さい事は気になさるな」
「全く……相変わらずですねぇ」

 下士官にもう行っていい、と手で示し、七郎次は小さく溜息を付いた。
 まぁ、こんな男でなければ、あの子の護衛など任せたりはしないのだが。
 そんな七郎次の思いを知ってか知らずか、五郎兵衛は鷹揚に笑いながら先程まで
七郎次が見ていたソナーに近付いた。

「それで、あいつは今は?」
「……イルカと遊んでますよ」



 沖に停泊しているイージス艦脇の海面に水飛沫が立った。そこから顔を出したのは、
灰青のイルカとその背鰭に掴まった橙の髪の少年。少年は顔に纏わり付く濡れ髪を
払って、イルカに笑いかける。

「ありがとな、送ってくれて。それから……暫くは、この辺の海に近付くなよ」

 優しく言い聞かせるように胴を叩くと、イルカは返事をするように一声鳴いた。
 周囲に潜水艦や護衛艦の姿さえなければ、それは随分和やかな光景だっただろう。
それでも、久し振りにあの子供の笑顔が見られた事で少し救われた気になれる。まだ、
あの子は笑えるのだ、と。
 船首の手摺りに凭れ掛かった姿勢のまま、七郎次は少年を呼んだ。

「菊千代ー、お迎えですよー」

 仲間の元へ帰って行くイルカを見送っていた菊千代は、その呑気な声に振り返った。
七郎次と隣に控えた五郎兵衛の姿を認め、イルカのように水面を蹴って飛び上がる。
高く昇った太陽の光を受けて、雫と銀の翼がきらきらと輝いた。
 思わず身を起こしそれを見上げた七郎次は、頭に浮かんだ一言を慌てて飲み込む。
そんな言葉を言う資格は、己には無い。

「よっ、と。やっぱまだ水冷たいな、北海道は」

 翼を収めて甲板に降り立った菊千代は、髪を結い上げるように掴み水を絞る。その
出で立ちに目を留めて、五郎兵衛は少し眉を顰めた。

「菊千代、お前服を着たまま海に入ったのか」
「いいじゃねーか別に。上は脱いでんだしよ」

 確かに上半身は裸なので『翼』に背中を破られる事はないだろうが、しかし。
 海に入ると言うのに下半身はいつも通りの長ズボン。七郎次の記憶が確かならば、
あれは菊千代の高校の制服ではないだろうか。

「それにもう……行くわけでもないしな」

 小鳥の吐息程に小さく呟かれたその言葉を、七郎次の耳はハッキリ聞き取っていた。
そしてやはり、あの言葉を口にしなくて正解だったと痛感した。
 五郎兵衛にも今の呟きが聞こえたかどうかはわからないが、彼もやや複雑な表情で
小さく息を吐く。

「それで……索敵の結果は?」

 持っていた厚手のタオルを菊千代に被せて五郎兵衛が尋ねた。

「あー、大分遠くまで探ってみたけど、どこにも引っ掛からなかったな」
「と言う事は、暫く上陸される危険はありませんね。一応海中・海上共に警戒ラインは
広げときますが」
「心配ねぇよ」

 頭を拭く手を止めて菊千代が面を上げる。

「もう二度と、奴らを陸に……街には上げさせねぇ。死んでも、護る」

 固く引き結ばれた口元は、色を失って青褪めている。

「菊千代……」
「さぁ、さっさと帰ろうぜ。俺シャワー浴びてー」

 思わず口を開きかけた五郎兵衛を遮るように、明るい調子でぺたぺたと歩き出す。
その後を追いながら七郎次が苦笑いを浮かべる。

「シャワーならここで借りればいいでしょうが……ヘリのシートを汚さないで下さいよ」
「あぁ? だったらお前らだけ乗って来いよ俺自分で帰るから」
「こんな真っ昼間から空飛ぶんじゃありません。緊急事態でもないのに」
「うるせーなぁ、おふくろかよお前……」

 軽口を叩き合いながら船尾の方へ歩いて行く背中を見遣って、五郎兵衛はもう一度、
深い溜息を付いた。





 学校と言う敷地の中で、密談に適した場所と言うのは限られている。その中でも最も
有名なのが体育館裏、と呼ばれる所だろう。遥か古来より果し合いやら愛の告白やら、
少々人目を憚る行為の場として選ばれて来た実績を持つ。
 だが今、犬走りに腰を下ろして聞かされた話は、そのどちらでもなかった。

「……俄かには、信じがたい話ですね」
「…………」

 知らず知らずの内に止めていた息を一気に吐いて、平八は体育館の少し薄汚れた
壁に背を預けた。中ではバスケの授業が行われているらしく、断続的に地震のような
揺れを感じる。その当たり前の日常の音が、久蔵の非現実的な話を際立たせた。

「でも、久蔵君がそんな嘘を付くわけありませんし」
「…………」
「それに……今の話のお陰で、引っ掛かっていた疑問が一つ晴れました」

 ずっと俯いたままだった久蔵が、ゆっくりと顔を上げてこちらを見た。

「五郎兵衛さんの事ですよ。あの人を見た時、すぐに只者じゃないってわかりました。
どこか、知っているような雰囲気だったんです」
「知っている……?」
「ええ、知ってて当然ですよね。軍人ならアメリカ(向こう)でイヤって程見ましたから」

 ほんの僅かに苦笑して、平八は頭の中で久蔵の話を整理する。何せ口下手な久蔵
だから、ハッキリ言って彼の説明だけでは詳しい事はわからなかった。それでも大体
予測は付く。ただわからないのは、『兵器』と謎のロボットだ。生身の人間の身体から
機械の『翼』が生えるなどと、そんな技術見た事も聞いた事もない。世界最高水準の
軍事力を持つアメリカ軍でさえ開発していない。それが何故日本に。何故菊千代が。
 久蔵たちを襲ったと言うロボットにしても奇妙だ。ロボットが人間以上に身軽に動き、
変形して空を飛ぶ。自分の意思で以って武器を用い、人を襲う。
 それらは全て、現在の地球の科学力では不可能だ。一体、何が起こっている。

「そう言えば……何でしたっけ、そのロボットの名前」
「あの男は『とびと』、と呼んでいた」
「トビト……うーん、聞いた事ないですねぇ……他に何か言ってませんでしたか?」

 問うと、腕を組んで暫し考え込む。やがて、無意識なのか久蔵の口からある一つの
単語が零れ落ちた。

「…………『Nobody』……」
「え?」

 上手く聞き取れずに聞き返すと、完全に思い出したのか勢い良く顔を上げた。

「Nobody、だ。一体目の『とびと』を破壊した後……あの男が菊千代に聞いた。他に、
Nobodyはいなかったか、と」
「Nobody……? それがロボットの名前……? そんなもの、どこにも……」

 ――否。
 どこかで、自分はその名前を知っている。
 思い出せ。
 あれは。

「そうか――――!!」

 反射的に、平八は立ち上がっていた。





 結局七郎次に説得されて、菊千代は艦で湯を借りた。元々五郎兵衛がこちらに来る
時にもSH−60J・シーホークを使用していたので、どちらにせよ補給の時間は必要
だったのだが。
 服を着替え、まだ少し湿った髪を潮風に靡かせていた菊千代に五郎兵衛は静かに
歩み寄った。

「菊千代」
「んー?」
「あの久蔵と言う少年……病院を退院したぞ」

 久蔵の名前に菊千代の体が僅かに緊張するが、五郎兵衛は気付かない振りをして
隣に並ぶ。

「わざわざ、確認しに行ったのかよ」
「まあな。経過は良好、後遺症も感染症も無しだ。だから……もう、気に病むな」
「っ」

 ぐしゃぐしゃと大きな子供の頭を撫でて、五郎兵衛は微笑む。
 胸元を強く握り締めた菊千代の手の中で、鈍く光る銀の光を目の端に留めて。





 それは、丁度一年程前の事。
 日本とアメリカの間で非公式の遣り取りが頻繁に行われているのを知った平八は、
面白半分でアメリカ国防総省のデータをハッキングしたのだった。流石にガードが堅く、
一部の情報しか見る事は出来なかったが、その中に何度となく登場する謎の名称。
 それが『Nobody』だった。

「あの時のあれが――……」
「何か、わかったのか」

 僅かに身構えて平八を見上げる久蔵に、満面の笑みで頷いてみせる。
 一年前に端を発した、国家間における密約。
 自衛隊に所属する『翼』のある兵器。
 そしてNobody。
 これだけの情報があれば、すぐにでも調べられる。

「本場仕込みのハッカーの腕前、見せてやろうじゃないですか」

 鳴り響くチャイムの音が宛ら試合開始のゴングのように思えて、平八は笑った。





     続く





主人公は 誰 で す か(爆)。ちょっぴりブラックヘイさん降臨です。
久蔵がヘタレ通り越して女々しい……何でこんなダメな子になっちゃったんだ(自分の所為です)。
シチさんゴロさんの辺りが凄い楽しかったです。自衛隊サイドが出て来る度に喜んでる作者(笑)。