<桜狩>
少し太り始めた月が淡く輝く、桜月の夜の事。
既に明かりを消し寝静まったある屋敷の塀の上に、人影が一つ現れた。影は人目を
気にするようにきょろきょろと辺りを見回し、やがて軽やかに地面へ飛び降りた。
もし誰かこの姿を見る者があったなら、すわ盗人かとちょっとした騒ぎになったかも
知れないが、生憎日付も変わって久しい深夜に道を歩く者など滅多にいない。かくて、
人影は悠々とした足取りで夜の路地へと消えて行った。
「あー……やっぱりまだ咲いてねェなぁ」
都の少し外れから聞こえて来たそんな呟きに、五郎兵衛は一瞬驚き、そして小さく
溜息を付いた。
こんな時刻に、こんな所で。一体何をやっているのか。
ぐるりと視線を巡らせば、大木の前でぽつんと立っている無防備な背中が見える。
月明かりに照らされたその姿は、髪を結いもせず腰に刀を挿してもいない。どう見ても
着の身着のままで抜け出して来た、と言った風体だ。
相変わらず己の立場を理解していない様子に、五郎兵衛は足音を忍ばせて背後に
立ち、出来るだけ低い声で名を呼んだ。
「菊千代」
「――――ッ!?」
面白い程にびくん、と全身を震わせて菊千代が振り返る。が、そこに立っていたのが
五郎兵衛だとわかってあからさまに安堵の溜息を付いた。
「な…………何でぇ、ゴロの字かよ!! 吃驚した……」
「お目付け役に見付かったかと思ったか? さては無断で出て来たな、お主」
「うぐっ……!!」
図星を指されて目を白黒させる菊千代。にやりと笑みを洩らすと、意味もなく両手を
上下させたり「あー」とか「うー」とか唸ったりと挙動不審に陥る始末。その仕種が妙に
可笑しくて、五郎兵衛はくっくっと僅かに肩を震わせながら口を開いた。
「安心しろ、勘兵衛殿には黙っておいてやる」
「ほ、ホントか!?」
「だが守り刀は持つべきだ。自分がどういう立場にあるのかを理解しているのならな」
「…………おう……」
「まあ、わかればよい」
項垂れてしまった頭を撫でてやると、くすぐったそうに少し苦笑い。それだけで、彼の
周囲を取り巻く僅かな光が幽かに強さを増した。やはり、力が強まっている。守り刀を
持たない以上、今日は早く戻らせるべきと判断して、五郎兵衛は話題を変えた。
「とにかく、今日はもう遅い。送ってやるから屋敷に帰るぞ」
「あ……あぁ。そうだな、桜はまだみてぇだし……」
「桜?」
桜が見たくて、わざわざこんな夜中に出歩いていたと言うのだろうか。
「ここんとこずっと儀式だか勉強だか、何だかわかんねぇ事ばっかりで、全然外に出て
なかったしよ……もう春なんだし、そろそろ桜が咲くかも、って思ったら」
「虫が騒いだか。菊千代らしいと言えばそうだな」
「勘兵衛に言ったってどーせ許してくれねぇし、でもいつまでかかるのかわかんねぇし」
だから、ちょっとだけ見ておきたかった。
そこまで言って、菊千代は頭上の枝を見上げた。幾重にも伸びた枝には薄紅色の
蕾が、数え切れない程付いている。しかし蕾は膨らんではいるものの、開花するには
まだまだ早そうだ。
「結局無駄足だったなぁ……」
「……いや、そうでもないぞ」
「え?」
至極残念そうに呟く菊千代の隣を通り過ぎて、五郎兵衛が笑う。懐から一枚の紙を
取り出して、桜の木の根元にはらりと落とした。紙が地面に辿り着くと、まるで溶ける
ようにするりと消えてしまう。
「!?」
「見ろ」
菊千代が驚いて見ていると、突然桜の枝の一本が淡く輝いた。目を凝らせば、蕾の
一つが光に包まれているのがわかる。何だろう、と思う間も無く変化が訪れた。
光が消え、次の瞬間、蕾がゆっくりと花開いたのだ。
しっかりと開き切った桜は僅かに震え、そのまま呆気に取られる菊千代の目の前へ
ふわりと舞い落ちた。慌てて両手で受け止める菊千代。
そこにあるのは幻でも何でもなく、真実本物の桜の花だった。
菊千代が呆然と五郎兵衛を見ると、彼は酷く優しげに微笑んでいる。
「一つくらいなら良かろう」
「……あ…………」
驚きすぎた所為か「ありがとう」の言葉は声にならなかったが、それでも五郎兵衛は
満足そうに笑って、今度は乱暴に菊千代の頭を撫でた。
翌日、妙に機嫌が良さそうな菊千代に勘兵衛が首を捻り、こっそり菊千代の様子を
式神に見に行かせた久蔵が嫌に不機嫌になっていたりしたのだが。
それはまた、別の話である。
終
久し振りに季節感のある話が書けました(笑)。最近悉く時事ネタを逃してたからなぁ……。
ってか季節ネタを陰陽師パロで書いてる率高くないですか自分。クリスマスですら陰陽師て(爆)。
ゴロ&キクはほのぼのしてるのが一番です。邪な思いが一切絡まないからね!(笑)
ひたすら甘えて甘やかして時々躾して撫で撫でしてラブラブです。もはや飼い主とペットです(ぇ)。